Chant to Someone

 

 

 

 教会内に残っていた人々が、少しずつ外へ消えていく。祭壇の傍に飾られた大きなクリスマスツリーを興味深げに見ていた子供達も、母親に連れられて帰路に着いていく。

 裾の長い黒のガウンを着た聖職者の男は、重く分厚い本を片手に、馴染みの老婦人がゆっくりと退出していくのを見送った。

 

「では牧師様、私たちもお先に」

「はい、気をつけて」

 

 シスター達が頭を下げて、建物の横に据え付けられた出入り口から出て行った。聖堂内にいるのは牧師の男一人となる。

 普段の服装はガウンだけだが、今日は祭事であるので十字の刺繍が施されたストールを首から下げていた。動くたびに揺れるのがやや気になっていたが、それももう終わりだ。

 男は祭壇まで戻り、一日が無事過ぎたことを神に感謝した。

 

 誰もいなくなった筈の教会で、正面の扉が再び開かれた。

 扉の前には、一人の人間がいた。格好は男と同じ黒い色のスーツ、髪は短い金髪をしていた。

 

「今日の礼拝は終わりましたよ」

 

 男は告げたが、スーツの人物は足を止めずに教会内へ踏み入る。体躯からして青年だろうか。身廊に敷かれた絨毯で、足音はほどんどしない。

 蝋燭の明かりでできた影が、男の足元へ伸びてくる。

 

「お仕事かなにかの帰りですか?」

 

 訪問者は答えない。男をまっすぐ見つめ、近付いてくる。

 次第にはっきりと見えてくるその顔は非常に整っていた。金色の髪によく合う白い肌と、男性にしては少し大きめの瞳。少女のような容貌には、まるでステンドグラスに描かれた天使のような趣があった。

 黙ったままの彼を奇妙に思った男だが、やがて解に思い至る。

 

 

「もしかして、懺悔を望む方ですか?」

 

 

 罪の告白を望む人間は、こういた人目につかない時間帯に訪れることも多い。男はこのスーツの青年も、その一人なのだと解釈した。

 

 

「何か胸の内に秘めたことがあるのですね。いいでしょう、聞きましょう。告解室の方が宜しければ、そちらに移動してもよいですよ」

 

 

 懺悔をする部屋がある回廊の方へ手の平で促す男だが、青年は歩みを止めず、男の真向かいまで来る。

 数歩分の距離を置いて立ち止まってから、青年は初めて言葉を発した。

 

 

「……懺悔することがあるのは、貴方の方ではないか?」

 

 

 不意をつかれた男は、柔らかな口調は崩さずに問う。

 

「……どういう意味でしょうか」

「半年ほど前、貴方はある富豪が開いたパーティに参加した」

 

 青年の発言に男は顔色を変える。その事実を知っているのは、ほんの一握りの人間だけのはずだった。

 男が参加したのは、社交目的で貴族が開催するただのパーティではなかった。街のとある資産家が合法・非合法問わず、世界中から集めたコレクションを披露するための催しであった。

 参加する人間は俗世のことを語らず、パーティが終われば赤の他人同士。それがルールであると、会の主も話していたのに。

 

「何故貴方がそういった会に参加したかについてまでは言及しない。……そこで貴方は氏からある品物を購入した」

 

 絨毯から外れた青年の革靴が、カツンと、硬質な音を立てた。

 

 

「緋の眼」

 

 

 青年がその言葉を紡いだ途端、男の心臓が早鐘のように打ち始める。

 

 

「貴方はそれを持っているな」

 

 

 男は内心の動揺を隠すように、青年に背を向けた。

 青年の声は淀みなく、男の罪を暴いていく。

 

 

「銀行の記録では約八千万ジェニー、パーティの五日後に貴方の名義で氏の口座へ振り込まれている。一介の聖職者にすぎない貴方が、それだけの金をどこから手に入れたのか。……簡単だ。教会の献金だ」

 

 

 男は己の背中が、目に見えて震えたのを憶えた。

 

 

「この教会は歴史が長く信者も多いから、資金を用意するのは容易かっただろう。宗教法人には税金がかからない。気付かれないと思ったのだろうが、浅はかだったな」

「……私を、脅す気でしょうか? それとも警察に?」

「いえ。貴方が購入したその品物を譲って欲しい」

 

 

 青年の申し出に、男は振り向いた。意外そうな顔をしている自分に青年は続ける。

 

 

「金なら貴方の出したのと同じ額を払おう。お望みならその二倍でも。無論、貴方個人でなくこの教会への献金としてになるが。額が大きくとも、月毎であればさほど不自然でもないだろう。……そうなればすべて元通りだ。貴方はこれまで通り暮らせば良い」

 

 心無しか、吊り目がかった目元が少しだけ、柔らかな口調を紡いだ。

 

 

「誰にも気付かれていない今ならば、普通の暮らしに戻ることができる」

 

 

 長い逡巡の後、男は首を縦に振った。

 

 

 

 

 教会と同じ敷地内に、男の寝泊まりしている住居があった。その家の金庫に隠していた品を男はあり合わせの布で隠し、聖堂へと戻った。

 

「逃げる素振りはなかったようだな。懸命だ」

 

 中に入り返ってきた言葉に男は疑問を抱くが、すぐに理解した。恐らく部下にでも見張らせていたのだろう。

 

「見せてもらおう」

 

 青年の声に観念したように、男は布を外した。

 床に落ちた暗い色彩の布が隠していたのは、二つの瞳だった。透明なガラスケースに中に一つずつ、液体と共に納められていた。

 それを見て、男は青年がわずかに息を飲んだように感じた。美しさに圧倒されてか、それとも他の何かか。喉の辺りがかすかに動いたのに男は気付いた。

 男の手の中で、赤い一対の瞳は二人を見上げていた。

 

「……本物だな」

 

 青年が品物を受け取ろうと、肘を伸ばしかける。

 しかし男は、緋の眼を抱える指に力を込めた。

 

「……駄目だ」

「何故だ」

 

 青年は淡々と問うた。予想していたのか声音に動揺はない。少なくとも男には、そう聞こえた。

 

 

「これはこの世で最も美しい、神の血と同じ色だ。想像上でしかなかった、これまで人が描くことの出来なかった神の御血そのものだ」

 

 

 男は腕に抱えた瞳を覗き込む。ケースの奥から緋色が語りかけてくるようだ。

 

 

 

「……貴方にはわからないだろう、この物の尊さが」

 

 

 神の血と例えられる、葡萄酒より深い色味でありながら、鮮やかな色彩を宿したその瞳。

 あたかも、瞳そのものが生きているかのように、それは容器の中で光り輝いていた。

 男は屋敷で初めて緋の眼を見た日のことを思い出す。一目見ただけで、全身が痺れるような感動を覚えたことを。

 

 

 何と美しいものがあるのか、何と自分の理想が現れた品であるか!

 それが人体の一部であることも、倫理的に禁じられた品であることも頭では理解していた。

 しかし、抗えなかった。手に入れずにはいられなかった。

 知ってしまったら、その存在を忘れて生きていくことなど出来なかった。

 

 

 

「これを手放すことなど出来るか!? 神に仕える私が!! 例えどれだけ金を積まれても、これを譲ることはできない。いや、金でこの物の価値を測ること自体が間違っている!! これは崇高な神の御血だ!!」

 

 

 子供のように箱を抱え込み叫んだ男を、青年は無感動な眼差しで見下ろしていた。

 青年が長い足を踏み出す。近付いてくる靴音にびくつく男だが、青年は身体の向きをふと変える。男が顔を上げると、青年はクリスマスツリーを仰いでいた。

 

 

「……アダムとイブは、禁断の果実を食べて楽園を追放されたのだったな」

 

 

 知恵の木の実を模した赤いリンゴの飾りに、手を這わせた。

 

 

「ここでも説いているのではなかったか? 欲は罪だと。知りすぎることは、罪だと」

 

 

 振り向いた青年の双眸には、これまでになかった色があった。

 

 

 林檎より、葡萄酒よりも濃く、深い、男の持つ瞳よりも、真っ赤に染まった色。

 血よりも赫い、瞳。

 

 

 この世で最も赤い色が、男を見据えていた。

 

 

 

「神の血などではない。それは私の同胞の瞳だ」

 

 

 視線が外せない。後ずさった体が祭壇にぶつかった。……逃げられない。

 

 

「勘違いしているようだが、これは依頼ではない。取引だ。貴様が大人しくそれを渡せば、我々は二度と姿を現さない。代価も支払う。だが渡さないなら、死ぬよりも惨い思いをしてもらうだけだ」

 

 

 ひぃっと、唇の隙間から悲鳴が漏れる。怯えた自分の姿が、赤い瞳の中に映っていた。

 

 

「貴様が手にしたのは禁断の果実だ」

 

 

 二人の背後でぽとりと、林檎の飾りが床に落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

「ここでいい」

 

 仕事場へと向かう車内で、クラピカは運転手を務める部下に言う。

 

「……? だが……」

「一人で帰れる」

 

 黒髪の男は、ミラー越しにしばらく彼を見つめていたが指示に従う。

 

「……わかった」

 

 ウィンカーを出し、道路の端に寄せ車を停止させる。

 

「二時間以内には戻れよ」

 

 男の言葉には答えず、クラピカは手の中の荷物を持ったまま車から降りるとドアを閉じた。

 走り去っていく車の音を遠くにし、大通りから裏路地へと入り込む。

 狭い道にはさまざまな物が転がっていた。時刻も遅いせいか人気はなかった。

 ビルの裏手にいくつか積まれた木箱に、クラピカはずるずると座り込んだ。

 

 クラピカは腕の中のものを抱き締めた。長い間探していたものの一つ。しかしこの手に取り戻したことに対して、何の感慨も湧くことはなかった。

 胸を占めるのはどうしようもない感情。やり切れなさ。

 同胞達への絶えない謝罪の言葉。

 

 

 瞳だけの姿になったのが誰か、確かめる術をクラピカは持っていたが、今する気にはなれなかった。

 クラピカはぎゅっと、容器を更に抱え込む。

 同じように抱えていた牧師の男の、怯えた眼を思い出す。

 

 

 ……あんなことを、これから何度すれば良いのだろう。

 

 

 

 額に触れるような、冷たい感触がした。

 目線を上げると、鼻先に雪の欠片が降りてくる。

 ……ああ、道理で寒い訳だ、とクラピカは思った。

 

 

 髪に触れる雪が、とても微かな音を生み出す。

 それはあまりに小さすぎて、にぎやかな人波では存在も認知されず、誰の耳にも触れずに消えていく。

 その囁きのような音の合間に、大気をにわかに震わすバイブ音がした。

 スーツの胸ポケットにいれていた携帯だ。のろのろと片手で取り出したそれには、ある名前が表示されていた。

 それを見てクラピカは瞬間だけ驚き、そして顔を歪めた。

 

 

(どうして、こんな時に)

 

 

 何故彼は、こんな時ばかりかけてくるのだろう。

 まるで手を差し伸べるかのように。

 殆ど取ることのできない電話を、何度も、何度も。

 他にもやることが沢山あるだろうに、自分のような人間を気にかけて。

 

 

 いつしか、どこからか賛美歌が流れていた。

 歌声とおぼろげな重奏を奏でるように、雪は降り積もり、携帯のバイブレーションは続く。

 布越しに緋色の瞳が見上げる先で、それらは幼子を慰める子守唄のように、クラピカを包んでいた。

 

 

 クラピカは眼を細めた。雲が立ちこめる暗い空をそっと睨む。

 手の中で、携帯はまだ振動していた。電話をかけている彼も今聞いているのだろう。相手が出る気配のないコール音を。

 

 

 目を熱くさせたまま、クラピカは口の端をそっと上げた。

 ……今の自分には、これで十分だ。

 

 

 

 

 

 華やいだ街並みとは裏腹に、受験生であるレオリオは一人自室で勉強に勤しんでいた。

 折角のクリスマスだが、ケーキを買うなんてこともしなかった。甘い物は特別好きなわけではないし、一緒に食べる相手もいないのに空しいだけだ。

 

「……やっぱ出ないか」

 

 数分間鳴らしても繋がらない電話のボタンを仕方なく切る。メールチェックもするが更新はない。

 今彼のいる国では夜なのだろうか。それとも、また別の時間か。

 都合のつかない理由が、ただの時差の違いであればどれだけ良いかと思う。

 最後に見たかすかな笑顔と、遠ざかった背中を思い出す。

 

 彼の現状を想像することしかできない己の不甲斐なさを噛み締めつつ、レオリオはペンを置いた。

 

「さて、寝るか」

 

 部屋の電灯を消す。最後にもう一度だけ通知と時間を確認した後、携帯を枕元に放った。

 だが先程かけた相手からいつかかってきても良いように、電源を落とすことはしなかった。

 寒さが足に沁みる。体を縮こまらせながらレオリオは目を閉じる。

 

 

 暗がりの中で、携帯の液晶が一瞬だけ光った。

 しかしそれは、音を立てることなく沈黙し、闇に消えた。

 

 

 

 

END

 

 

 

 

クリスマス記念話。実はお友達に戴いた『僕らの賛美歌』というお題から浮かんだ話でした。

賛美歌→携帯のメロディという連想です。

 

 

2015.12.25