Overflow 第一話

 

 

 

 

(私は、憎しみを注がれた器だ)

 

 とあるビルの地下の一室に、まばらだが人の出入りがあった。

 博物館の様相を呈した室内を、スーツに身を包んだ見学者たちは物珍しそうに見渡す。

 この部屋にある品は、いずれも普通の博物館では飾られていない代物ばかりである。その中でも一際見学者たちの目を惹いていたのは、部屋の真ん中に据え付けられた丸い水槽だった。

 展示されている場所から、一見してこの博物館で最も貴重な展示品とわかる。

 他の容器類は全てホルマリン等の薬品で満たされていたのに対し、その水槽には定期的に泡が揺蕩っていた。

 時折僅かに、水槽の中で何かが身じろぐ。

 

 水槽の中にいるのは、人間だった。

 

 透明な培養液の中で揺らめくのは金色の髪。肌は白く、幼さの残る肢体と顔立ちは非常に整っており、少年にも少女にも見えた。

 凹凸の少ない体には、何本かのチューブが繋がれていた。腕や足に固定された灰色のそれは、まるでその人物を絡み取る鎖のようでもあった。

 不意に瞼が動き、閉じていた瞳が開かれる。

 眼窩に納まるその色は、赤だった。

 

 

『ほぅ……これが噂に聞く〝生きた〟緋の眼か』

『さすが、世界七大美色と言われるだけありますな。実に美しい』

『なるほど、これは見事なものだ』

 

 

 世界各国から珍しい物と人が集まる、活気の溢れる街ヨークシン。

 街の一角を為すビル群の中心にあるセメタリービルは、世界最大の闇オークションが開かれる会場として有名であった。

 そしてオークションの商品と同等に、あるいはそれ以上に、セメタリービルを訪れる者たちの関心を引くものがあった。

 有名女優の毛髪、古代遺跡に安置されていたミイラ、為政者の脳細胞などといった品々が飾られる場所。

 

 人体博物館(ミュージアム)。

 それがその施設の名だった。

 

 ヨークシンの闇の世界を牛耳るマフィアによって運営されるその博物館には、文字通り動物だけでなく、人体の部品(パーツ)が展示品として収められている。

 展示品の中には、時にオークションにかけられる品より高値で取引される物もあった。世界七大美色である〝緋の眼〟もその一つだ。

 

 

 

 〝緋の眼〟とは、ルクソ地方に住むクルタ族の特異体質によるものである。

 彼らの瞳は、普段はほかの種族と何ら変わらぬ碧や茶をしているが、怒りなどで感情が昂ると鮮やかな緋色へと変わる。その状態で命を落とすと、緋色は眼球に定着し褪せることは無い。

 その稀有な美しい輝き故に、クルタ族は古くから度々狙われていた。その為彼らは山奥の森に隠れ住み、移住することを繰り返していた。

 ところが四年前、盗賊団を筆頭にしたマフィアによってクルタ族は滅ぼされた。遺体からは眼が抉り取られ、貴重な品として世界中に出回った。

 その襲撃を逃れた、世界で唯一の〝生きた〟緋の眼——それが彼だった。

 

 

 彼(性別を断定できる情報はないが、便宜的に彼と記す)の生活は、常に機械によって管理されていた。

 管からは酸素と脳内物質が投与され、人工的に緋の眼が発現できるよう調整されていた。

 午後六時から午後十二時までの六時間。それが彼の〝鑑賞時間〟であり、最も長い時間、緋の眼が現れるよう調節された時間である。残り十八時間を薬で強制的に睡眠に当てることで、連日の緋の眼の鑑賞が可能となっていた。

 目が覚めている間、彼の感情は常に怒りで満ちていた。だが全身状態を管理された身体は自由にならず、自らの意思で動くことは叶わなかった。

 博物館を訪れる誰もが、彼を生きた人間ではなく動かぬ展示品と見なしていた。実際見学者たちが目の前で何を行っても、彼の誇りであるクルタ族のことを口にしても、薬で制御された彼はほとんど反応を示さなかった。

 しかし彼の中には、仲間を殺した者たちへの怒りと共に、一つの意志が消えずに残っていた。

 

 ここから、出てみせる。

 

 

 

 

『わぁー綺麗―! これが生きた緋の眼なんだぁ』

 

 甲高い声がする。ヒールの靴音が響いて影が近付いた。ガラスにぺたぺたと手が当てる仕草といい声といい、どうやら今前にいるのは少女の様だ。

 断定できず推測になってしまうのは、水槽の中にいる彼からは、全身を包む水とガラス越しで視界が霞んでいるからである。

 

『いいなぁ。うちにも一体あったらいいのに。これいくら位なんだろ?』

『そうですね……現存する他の緋の眼と違い、これはまさしく世界唯一の〝生きた〟品ですから、流石にお父上でも手が出せないものかと』

『えぇー、すっごく綺麗なのにー』

 

 脇に控える影の答えに不満げに返した少女は、なおも興味深そうに見つめてくる。その姿も眼差しも彼にはわからないが、他の見学者と同じ熱のある視線を肌に感じていた。

 

『ボス、そろそろ時間ですよ』

『はーい』

 

 足音が遠ざかる。同時に他の影も消えて、水槽の前からは誰もいなくなる。

 入れ替わるように、また別の影が現れる。その繰り返しが彼にとっての日常であり、常と同じように、彼は真っ赤に染まった瞳で水の奥を見つめていた。

 

 また、誰かが立った。

 相変わらず視界はぼやけており、何者かはわからない。だがこれまでに来た者たちより影は小さく、かなり小柄な人物だとわかった。

 

『……聞こえるかしら』

 

 柔らかな調子の声が問いかけを発した。子供のように小さな姿だが、意外にも落ち着いた妙齢の女性のものだ。

 先程の問いが自分に向けられたものなのかと、彼は暫し考える。

 

『聞こえていたら何でもいいわ。合図を頂戴』

 

 女性らしき影がそう続けるので、自分への問いと判断し、指先に全神経を集中させる。

 僅かに指の間接が動く。彼の精一杯のサインを受け取ったらしく、彼女は一度首を縦に振って言った。

 

『今日の午後十一時、ここの電源を落とすわ。時間は十五分間。その間にここから脱出して』

 

 思ってもみない言葉に、彼の緋色の瞳孔が微かに開く。

 

 

『いきなりこんなこと言うなんて、何故と思うわよね。でもどうしても見過ごせないの。あなたはもっと広い場所で、太陽の下で生きるべき人。こんな所にずっといてはいけないわ』

 

 

 切々と影は話し続ける。

 

 

『……私自身は、あなたのことを殆ど知らない。でもわかるの。あなたの心音がそう教えてくれてる』

 

 

 根拠とするには不明確な理由だった。だが彼女の声音は、不思議な説得力を持っていた。

 

 

『……生き延びなければ、ならないのでしょう?』

 

 

 彼が戸惑っているのを知ってか知らずか、声色が少し優しいものになる。

 水槽越しに触れるように、彼の指の近くに彼女は手を伸ばした。

 

 

『大丈夫。あなたならきっと出来るはずだわ』

 

 

 

『必ず探しに行くから、それまでどうか無事でいて』

 

 

 

 午後十時五十九分。

 客足が落ち着き、展示物である彼以外に人間はいなくなった。

 室内にこだまするのは、彼を管理する水槽に付けられた機械の音だけだ。

 

 

 

 午後十一時。

 小柄な人物が言っていた通り、照明が落ちた。

 室内の空調も防犯装置も、一時的に機能を失う。

 ウィィィン……と、水槽の傍の機械が停止した。人工的に作られていた水槽内の水の流動が止まる。

 同時に、彼の行動を抑制していた薬の注入も止まった。

 闇を認識した彼は、徐々に感覚がはっきりとしてくる身体を意識する。

 腕を、持ち上げる。意思の通り、彼の腕は自由に動いた。

 何度か、ガラスを叩いた。出来る限りの力を込めて、久しぶりに感じる痛みも気にせずに叩く。

 拳の勢いと水の圧力に、容器が軋む。

 ピシッという音がして、水槽に亀裂が入った。拍子に小さな割れ目から水が数滴外に飛び出す。

 自分を閉じ込める檻にひびが入ったのを、手の先で確かに感じた彼は、渾身の力を込めてもう一度ガラスを叩いた。

 ガシャアァアアン!!

 耳の奥にまで響く、けたたましい悲鳴のような音を立てて水槽が盛大に割れた。

 同時に彼の身体は床に投げ出され、中に入っていた水も床に広がる。

 

「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 

 激しく息を吐く。彼にとって、肺による自発呼吸は酷く久しぶりのものだった。喉から肺に空気が入る苦しさに、彼は数分間うずくまる。

 装置の管理から解放されたとはいえ、常人ならば動くことすら不可能だっただろう。

 しかし彼の持つ〝緋の眼〟が、彼に力を与えていた。

 ゆるりと起き上がった彼は、両腕両足に繋がっていたチューブを引き抜く。皮膚に固定されていた針で血が滲むが、彼は気にしなかった。気にする余裕もなかった。

 暗がりの中、必死に呼吸をしながら彼は立ち上がる。

 水槽のすぐ隣に展示されていた衣装を身に纏い、吊るされていた木刀を腰にかける。独特の造りの衣装だったが、どうすれば手早く身に付けられるか彼はよく知っていた。

 久しぶりに明瞭な視界の端に、別電源の非常灯の光が浮かんでいる。

 ふらついた足取りで、彼はそこを出て行った。

 

 

 

 建物の構造を全く知らなかったが、彼は外への道を的確に辿り脱出することができた。

 偶然だろうか、幸いにも追手は来ていない。裏口から出て間もなく、ビルの電源が復旧したらしく窓の明かりが順々に付いていく。

 時々後ろを確認しながら、彼はとにかく歩いた。

 

「……はぁっ…はぁっ……」

 

 人のいる大通りを避け、ビル街から少し離れた住宅街まで来た。

 だがその足が止まる。塀に手を付いて、彼は息を整える。

 道中真っ赤だった瞳は、普通の人間のそれと大差ない色へと戻ってきていた。

 

「……っ」

 

 水がある訳でもないのに視界が霞み、彼は地面に片膝を付く。極度の疲労だ。そのままずるずると崩れ落ちる彼は、最後の力で体勢を少し変え塀にもたれた。

 体力が尽きていくのを実感する。道の向こうで、壊れかけた街灯が明滅していた。

 それを遠い意識で捉えながら、暗闇に誘われるまま彼は目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 予備校からの帰り、夜道を早足で男は歩く。

 暴漢に襲われる、などといった心配があるわけではない。例え襲われても大抵の相手なら返り討ちにする自信は持っているが、疲れた体を休めたくて自然と足取りは早くなる。

 自室のあるアパートまで1ブロックという地点に来た所で、ふと彼はそれに気付いた。

 

「ん?」

 

 脇の小道に、何かがある。

 消えかかった街灯が照らしているのは、人影のようだ。

 近所の人間が酔って倒れているのかと、家路を辿る足を止め男は近付いた。

 

 最初は、精巧な造りの人形かと思った。

 夜の闇で、淡い蒼に染まった髪はショートカット。歳は十五、六といった所。男の知らない人間だ。

 石垣に背中を預けた体勢で、ぐったりと目を閉じている。

 男はその場に屈み、鞄を横に置いて更に詳しくその人物を見ようと顔を寄せた。

 

 女……? いや男か?

 整った顔立ちはどちらにも見える。伏せられた目元もバランスの良い形をしており、性別を特定する決定的な証拠はなかった。

 

(まぁ、でも男かな。女だったらもう少し肉付きいい筈だろ)

 

 変わった衣装を身に付けていた。群青色の生地に幾何学模様が描かれた、上下対のスカートの様な服だ。民族衣装の類いだろうか。

 

「おい、お前、生きてるか?」

 

 呼びかけながら、男は少年(と一応見なした)の頬を軽く叩いた。触れた肌はひんやりと冷たい。

 首に指を当てると、弱いながらも脈はしっかりと打っていた。呼吸も弱々しいが規則的にしている。

 死体でなかった事に少しだけ安心するが、男はそこであることに気付いた。雨が降ったわけでもないのに、短めの髪からは水が滴っている。

 だが独特の服は濡れていない。靴は履いておらず、剥き出しの足は傷だらけであった。

 

 ……訳アリってやつか。

 

 家出か、別の何かか。いずれにせよ普通の事情ではないだろう。

 だが医者志望としては、このまま放って置くのは寝覚めが悪い。

 

「……ったく、仕方ねーなぁ」

 

 お人好しと言われる己の性分に内心溜め息を吐きながら、男は少年の身体を担ぎ上げた。

 重さに身が傾がぬよう力を入れて立ち上がるが、意外にもすんなり持ち上がった。

 

「……こいつ軽いなー」

 

 背中に感じる重みが、その存在が確かなことを主張していた。

 

 

 

第一話 終

 

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