Overflow 最終話

 

 

 

 

『僕らが外に出たいと思ったのは、D・ハンターを読んだからでしょ?』

 

 

『クラピカは外に出るべきだよ!』

 

 

 あの日、そう言って、クラピカの親友は外へ送り出してくれた。

 彼ならば、きっと「いいよ」と言ってくれる気がするのだ。

 

 

 

 ねぇ、パイロ。

 

 

 

 オレ、生きてみてもいい?

 

 

 

 

 

「……これが私か」

「ええ」

「随分、歳を取ってしまったものだ」

 

 センリツの差し出した鏡を見て、クラピカは言った。彼の記憶にある自分の姿は、マフィアに捕まる前、十三歳の時のものが最後だった。

 覚えているものとは違う己の姿を改めて見て、クラピカは戸惑いを隠せない。流れてしまった月日の長さを実感してしまう。

 

「……そういうことは、もっと大人になってから言うことよ」

 

 センリツは小さな手を、そっと彼の手に添えた。

 

「あなたはまだ若いわ。これからいくらでも取り戻せる」

 

 まだ困惑した様子のクラピカは、幼子のような表情でセンリツを見つめ返す。

 

「……私はこれから、どうすればいいのだろう」

「……その問いに、私達が答えることは出来ないわ」

 

 厳しくも感じられる言葉を、センリツは紡いだ。

 

「あなたの望みは、あなたが一番よく知っているはずよ」

「私の、望み……」

「幸せになることは、決して悪いことではないと思うわ」

「……しかし……」

 

 生きようと、己の運命に向き合おうと決めた後でも、自分だけ幸せになっていいものかと、クラピカの心は揺らいでしまう。

 クラピカの奥底にある罪悪感を見透かしたように、センリツは穏やかに続けた。

 

「自分が幸せになることを許せないなら、ほかの誰かを幸せにすればいいんじゃないかしら?」

「ほかの……だれか……?」

「今のあなたにとって、大切な人を」

 

 

 

 

 

「オレさ、結構嬉しかったんだ」

 

 

 日課となった訪問のある時、キルアは唐突に話し出した。

 

「アンタに言ってもらったこと」

 

 折しもその日はウイングとの修行で、ゴンが居残りとなりキルアだけが先に部屋へやってきていた。窓のサッシに腰掛けたキルアは、外へ目線を向けながら、クラピカと最初に会った時のことを指した。

 

 

『たった一人の友達だからではなく、彼だから大事なんだろう?』

 

 

「オレん家、暗殺一家でさ。ガキの頃から人殺しの訓練させられてたんだ。実際に仕事もしてた」

「仕事……」

「殺しのね」

 

 気怠そうな語り口から、予想だにしない内容が明かされる。思わず息を飲んだクラピカを察してか、キルアはおもむろに右手を掲げてみせた。

 手首から先に力が籠もり、指に血の筋が浮き上がる。瞬く間に爪が伸び、キルアの右手は鋭利な刃物のように変化した。

 

「……オレのこと、こわい?」

「……わからない」

 

 怪しげに笑って訊ねるキルアに、少し考えた後クラピカは答えた。身内を心ない者に殺された身としては恐ろしいはずだが、これまでの日々が、クラピカに彼が自分に危害を加えない者であると伝えていた。

 ただ、まだ幼い見た目にそぐわない、鋭く、研ぎすまされた刃のような雰囲気が、キルアからは滲み出ていて。それがほんの少し怖さと、一抹の切なさを感じさせるようだった。

 

「家にいるのは、同じ殺し屋の家族と使用人だけで、出かけるって言ったら仕事の時だけ。だからゴンと会うまで、同い年の奴とか友達とか、そういうの全く無かった。オレにとって、ゴンは初めての友達なんだ」

 

 話が進むにつれ、キルアの顔が少しずつ晴れやかなものになる。その変化は、キルアにとって彼との出逢いが、どれだけ大きな出来事であったかを物語っていた。

 キルアは一旦、そこで口を噤む。

 

 

「……でもそれが、それだけが、オレがアイツのことを大事な理由じゃないんだ。上手く言えないけど。他の誰でもないゴンだから、オレは友達になりたいと思ったし、今も一緒にいる」 

 

 

 そう言うと、キルアは照れ臭そうに少し身を動かした。

 

 

「そのことをアンタにわかってもらえてさ。何ていうか、嬉しかったんだよ」

「……そうか」

 

 

 クラピカに対し、キルアは邪気のない顔で笑ってみせる。

 

 

「だからオレは自分に出来ることで、ゴンの力になることなら、何でもしたいって思ってる。ハズイからアイツには絶対言わないけどね。……クラピカのことも、時々なら手伝ってもいいよ」

 

 

 ついでにレオリオもね、と付け足された台詞に、クラピカは小さく笑みを零す。

 それから暫く彼と同じように、窓の外のヨークシンの街を見ていた。

 

 

 

 

 

 その晩、夕食を終えた後、クラピカはレオリオに訊ねた。

 

「レオリオ」

「ん?」

「私はここにいていいのか?」

 

 キッチンから不審そうな顔つきで見てきたレオリオに、クラピカは苦笑いをした。

 

「……前とは少し、意味が違うぞ」

 

 クラピカの表情に暗いものがないことを確認し、レオリオの目つきが和らぐ。その反応を見てから、クラピカは続けた。

 

「私の事情を知ったのなら、私をここに置くことの意味が分かるだろう。……私はマフィアに追われている身だ。それでなくても、クルタ族である私を狙う輩は数多くいるだろう。このままここにいては、君を危険に晒してしまうかもしれない」

 

 持っていた食器を流しに置くと、レオリオはクラピカの前に座り、彼をまっすぐに見つめる。

 

「なぁクラピカ」

「……うん」

「お前には、オレが自分の身が危ないからって、『はいそーですねー』ってホイホイダチを見捨てるような奴に見えるのか?」

「……いや、そんなことはない」

 

 クラピカはゆっくりと否定する。

 

「だが私の所為で、君やゴンやキルアが傷付くようなことには、なりたくない」

「でもそれは確定したわけじゃねーだろ?」

「それはそうだが。しかし、もし万一何かあったら、私は……」

 

 痛みを感じるように顔を歪めたクラピカに、レオリオは安心させるように笑った。

 

 

「その時はその時さ。それに、オレが前に言ったこと、覚えてるか?」

 

 

  『オレもゴンもキルアも、お前にここにいてほしいって思ってるんだぜ』

 

 

「その気持ちは今も変わらねぇ。寧ろ、前より強くなった気すらするな」

「……どうして?」

 

 

 不思議そうに聞くクラピカに、レオリオは溌剌とした顔で言い切った。

 

 

「お前と会って、オレの生きる道が固まったんだよ。オレはやっぱり何がなんでも医者になって、ダチと同じ病気の奴らを治してやりたい。そんでお前みたいに、必死で生きてる人間を救ってやりたい。一人でも多くな」

 

 

 力強く語るレオリオを、目が覚めるような思いでクラピカは見つめる。

 

 

「それに、オレはもうお前の主治医みたいなもんなんだ。途中で患者を放り出すことなんか、オレにはできねぇな」

「……まだ医者ではないだろう」

「だから、『みたいなもん』って言ってんだろ」

 

 

 クラピカの冷静な指摘に、細けぇなとレオリオは毒突いた。

 

 

「……だからよ、お前は難しいこと考えねーで、まずは大人しく身体を治すことに専念しろ。まずはそれからだ。やりたいことややらなきゃならねーことは、それから考えたらいいじゃねぇか」

 

 

 ぶっきらぼうな口調の中には、出逢った時と変わらない優しさがある。そんなレオリオから、クラピカは目を離すことが出来なかった。

 込み上げてくる感情に、彼の名を呼ぶことしか出来なかった。

 

 レオリオの名前を呼んだきり、黙りこくるクラピカを彼は覗き込む。

 

 

「………おいどうした? 何でお前目赤くなってんだよ。どっか痛ぇのか?」

 

 

 狼狽える彼に首を振り、クラピカは心配そうに伸ばしてきた彼の手を取った。

 

 

「……クラピカ?」

「…………君なら絶対なれるさ」

「え?」

「立派な医者に」

 

 

 陰りの無い表情で、クラピカはレオリオに微笑った。 

 

 

 

 

 

 数日後から、クラピカはリハビリを始めた。

 まずは手足を自由に動かせるようにするため、筋肉の落ちた腕を誰かに片方ずつ持ち上げてもらう。足も交互に曲げては、伸ばすことを繰り返した。

 本当に少しずつだったが、毎日根気よく続けることで、クラピカの身体は動きを取り戻していった。

 緋の眼にならずとも、支えさえあれば、立ち上がることも出来るようになった。

 

 

 季節はいつしか、二人が出逢った春から、夏へ近付いていった。

 ある夜。肌に纏わりつく湿気を、手で扇ぎ払いながら、レオリオは予備校から帰宅する。

 アパートの階段を昇りきった彼は、部屋の前にある人物がいるのを見つける。

 レオリオを見た彼は、アパートの蛍光灯に光る金髪を揺らして笑う。

 

 

「……レオリオ」

 

 

 両手で手すりを持ち、クラピカが廊下に立っていた。

 彼が待っていたことにレオリオは一瞬驚くが、すぐに笑顔になって彼を呼んだ。

 

 

「クラピカ」

「おかえり」

「ああ。ただいま」

 

 

 他愛ない言葉を交わしながら、クラピカの背に手を回す。クラピカはその手を受け入れ、彼に身を預けつつ、地面にしっかりと足をつける。

 彼の体を支えて、レオリオは狭い我が家に戻る。

 

 少し湿った、夏の夜風が吹いた。

 

 

 

 

END