産まれ落ちたその日のこと

 

 

 

 朝方降っていた霧雨がやみ、穏やかな微風が午後の日差しの間を揺らしていた。

 その日、ミゼリコルドがエーテルネーアの部屋を訪れた。

 

「失礼します、エーテルネーア様。先日手配しました、次の天子をお連れしました」

「……そうか」

 

 ミゼリコルドの腕の中には、つい先日生まれたばかりの赤子がいた。

 湖の色の髪をした赤子だ。ふわふわした素材の布にくるまれたその子は、まだ己の運命も知らず健やかな寝息を立てている。

 天子の力は、先代の天子が死ぬと新たな者に引き継がれる。それは代々ナーヴに生まれる、まだ自我を持たない赤子に宿る。

 幾年月の繁栄の間に、ナーヴは天子の力を特定の赤子に引き継がせることを可能とした。

 ミゼリコルドが連れてきたのは、敬虔な若夫婦から預けられた子供だった。両親の代よりナーヴ教会の熱心な信者であったその夫婦は、我が子を天子として捧げよという教会の命令に躊躇もせずに従った。

 

「私どもの赤子が天子様となりうるなんて、これほどの幸福がありましょうか」

 

 父親はこの上なく嬉しそうに語った。

 

「この子はもう、あなた方の子ではありません。神聖なる天子となられるのです」

「承知しております。この子は神の子、清きアークの神子。私の体を通してこの世に降りてこられた、それだけのことですわ」

 

 母親も納得していた。生みの親から引き離された赤子は少しだけぐずる様子を見せたが、程なくまた眠りについた。

 

 

 ミゼリコルドの腕から、エーテルネーアは赤子を受け取る。

 祝福を求められ、信者たちの子供を抱いたことはある。しかしここまで小さな赤子を抱くのは初めての経験だ。

 生まればかりの身体はあまりに小さくて、頼りなくて、どことなく落ち着かない心地にもなる。

 穏やかな表情の裏でエーテルネーアは内心ほんの少し戸惑ったが、ふにゃふにゃと微睡んでいる赤子を見ているうちに気持ちも落ち着いてきた。

 

「……この子に、名前を付けなければね」

「…………は?」

 

 何を言うのだという顔つきで、ミゼリコルドはエーテルネーアを見やる。

 

「天子に名前が必要ですか?」

 

 教典を読み上げるときのように揺るぎない調子で、ミゼリコルドは言い募る。

 

「貴方もご存知の通り、天子はただの偶像。役割を演じる子供に、名前など必要ない。余計な自我を与えるだけだ」

 

 内容もありミゼリコルドの言葉は、高圧的な厳しい物言いにも聞こえる。普通の信者やユニティオーダーの兵士ならばびくつくところだろうが、長年の付き合いでエーテルネーアは動じることなく返した。

 

「けれどこの子が大きくなったとき、私たちが名を呼び合うのを聞いて、自分も欲しいと駄々をこねるかもしれない」

 

 すると天子がふいにぱちりと瞼を開く。金色の王冠のような輝きを持った瞳で、自分を見上げる天子をエーテルネーアは見つめ返す。

 

「子供はないものを欲しがるからね」

 

 天子は無垢な瞳でしばらく大人たちを見ていたが、やがて眠気が訪れたのか、ううん、と唸り出す。それに気付いたエーテルネーアは子を持つ信者たちがするように、抱いたまま身体で小さなリズムをとってみた。途端にまたすやすやと眠りだした赤子を認め、微笑する。

 一連の様子をミゼリコルドは冷めた眼差しで眺めていたが、やがて溜め息を吐くように答えた。

 

「エーテルネーア様の、お好きなように」

「ああ、ありがとう。ミゼリコルド」

 

 立ち去る彼の口調にわずかに呆れた気配があったのは、気のせいではないだろう。

 エーテルネーアは笑みをかすかに苦いものにしながら、腕の中で眠る天子を見つめる。

 

 

 そうだ、これはきっと感傷という名の、自己満足だ。

 名前を持ったところで、この子はおそらく、生涯その名を呼ばれることはないだろう。

 天子は天の子。この世で最も気高く、尊ぶべき存在。

 

 誰が呼べようか、そんな天上の存在の名前を。

 人前で敬称なく、口にすることができようか。

 

 

 ふとある思いに駆られ、エーテルネーアは天子を抱いていた腕の片方を持ち上げる。

 ナーヴ教会のトップに就く者のみに、代々継承される秘術。この世で己のみが知るもの。

 天子が振り撒く、死の呪いの解呪。

 

 ……解いてしまおうか。こんな、人の身に余る呪いなど。

 

 

 けれど典礼の折、熱心に祈りを捧げる信者たちの顔を思い出した。

 ナーヴ教に、神に、天子にすがる人々。約束された平和をこの先も願う人々。

 

 その願いを、裏切ることはできない。

 

 

(僕は、弱虫だ)

 

 

 天子という拠り所を失くし、失望するであろう人々をどう導けばいいのか。

 その覚悟もなく、この腕の中で眠る小さな彼の代わりに、祈りを背負うこともできない。

 

 無意識に腕の力を強くしてしまったためか。それとも、エーテルネーアの心情を感じ取ったのか。

 静かに眠っていた天子は急に顔を歪めると、声を上げて泣き出してしまう。

 はっとしたエーテルネーアは、慌ててまた彼をあやし始める。胸元に体を寄せ、心音を聴かせながら、穏やかに語りかけつつ彼が落ち着くのを待つ。

 

 そうして泣き止んだ子を見下ろしているうちに、自然と微笑が零れた。

 

 

「……きっと優しい子なのだろうね、君は」

 

 

 代々ナーヴ教会の人間として、エーテルネーアの一族はアークに身を捧げてきた。

 天子がいる限り未来永劫続くであろうアークの繁栄を願い、両親は自分に「永遠」を意味するエーテルネーアと名付けた。

 

 

 永遠。それは何と、もろく儚い輝きだろう。

 この手の中に宿る秘術ひとつで、ナーヴの、アークの約束された限りない未来は消え失せるのだ。

 後ろ暗い歴史を秘匿し、神秘のベールとして幾重にも重ねて、自分たちは嘘の神話を護りつづけている。

 

 それを壊す勇気は、エーテルネーアにはまだ持てない。

 

 

「……そうだな……君の名前は……」

 

 

 産まれ落ちた時より、ナーヴの兵器としての力を宿した子。

 

 その力は呪われたものだが、けれどいつか。

 

 

「アルム」

 

 

 君自身の持つものが、命が、誰かの力に、武器となるように。

 

 そう、今だけは願いながら。この名前を与えよう。

 

 

「君の名は、アルムだ」

 

 

 手のひらの中へ収まってしまう、小さな小さな手を握りながら、エーテルネーアは囁きかける。

 

 

 

 ……いつか、君の名を呼ぶ人が現れるよう。

 

 

 今日だけは、君のために祈りを捧げるよ。

 

 

 アルム。

 

 

 

 

 

 

 

「起きたのか、アルム」

 

 クヴァルの声に、午睡から目覚めた少年は顔を上げる。

 

「……アルム、どうしたんだ。泣いているのか」

 

 友の問いかけに、かつて幼な子だった少年は目元を拭った。

 

「……懐かしい夢を、見たんだ」

 

 遠い昔、部屋を訪ねてくれたとき、頭を撫でてくれた手つきを、優しげな目元を思い出した。

 そして初めて抱き上げられた腕の温度を、思い出した。

 

 

「……貴方も、私の名を呼んでくれていたんだな、エーテルネーア」

 

 

END

 

 

ダンマカ本編でエーテルネーアがあまりに不便だったので、衝動のまま書いたもの。

リーベルがアルムに「皆お前の名前を呼んでいる」と語っていたとき、エテ様もアルムの名前を呼んでくれてたよ…!と。

彼らが知り得ることはなくとも、せめてエテ様が優しい人だったことはアルムにずっと覚えてほしいです。

 

初出:2021.1.29