通り雨 <前>

 

 

 

 

 雷鳴と激しく打つ雨の音が、夜の森をなぎ倒そうとする。

 襲いくる激しい嵐に、森に住む生き物たちはみな息を潜めていた。

 だがある人物は楽しそうに、小走りで道ならぬ道を走っていた。

 

「うっひょー、こら何処かで雨宿りした方がええかな」

 

 乱暴な風に乱されるのは、男性にしては長めの金髪。額には切れ長の目を覆うように、長い赤色のバンダナが結ばれていた。

 男の名はナナシ。先日、メルヘヴンで最も勢力の大きな盗賊ギルド・ルベリアのボスとなったばかりの男だった。

 しかし男は部下も連れず一人でいた。

 

「早う帰らんと、皆心配するやろなぁ」

 

 とある町へ仕事の下見に来た後、先に仲間たちを帰らせて寄り道をしたナナシは、運悪く大雨に降られてしまったのだった。このところ西側の空に覆っていた雷雲がやってきたようだ。

 滑らないよう少しスピードを落として、水たまりを踏みしめる。しかし次に進むための足を、ナナシは踏み出さなかった。

 足を止めたまま、背後に潜んでいる人影にちらりと目をやる。

 

(魔力の気配……一人か)

 

 探りながら、ナナシは目つきを鋭くした。

 

(何かずいぶん乱れてるようやけど)

 

 この悪天候のせいだろうか。万全とはいかないらしい向こうの事情はわからないが、警戒は怠らない。……はっきりとした、こちらへの敵意が感じられる。

 ナナシは立ち止まった身体を、もう一歩だけ動かしてみる。相手は動かない。

 ゴロゴロ……と、遠くで雷の唸り声が聞こえた。雨がさらに勢いを増す。

 

(……仕掛けてくるか?)

 

 顔を流れる雨粒を、拳で拭う。視界がしっかりと利くのを確認した。

 そしてもう一歩、足を動かした次の瞬間、ナナシはその場をすばやく飛んで離れた。

 後方の暗がりに光が集まり、細長い金属の棒へと変わる。……ARMだ。

 

「くっ!!」

 

 着地してすぐさま、鷹の頭の形をしたランスを発動させた。攻撃を迎え撃つ。

 ロッド使いらしい襲撃者の背は小さい。しかし小柄な身体から繰り出される攻撃は躊躇いがない。風を切る感触が頬を掠める。

 

「いきなり何のつもりや!」

 

 ナナシは吠えるが、襲撃者は答えなかった。攻撃の手を緩めず、どれも的確に急所を狙ってくる。

 だがナナシは、それらをすべてガードした。全身が雨で濡れて力加減がやや難しかったが、攻撃を全部受け切った。相手の呼吸が一度切れたのを感じ取る。

 

 雷鳴が轟く。近くで炸裂した閃光が、互いの姿を照らし出した。

 白と黒に彩られた視界に、襲撃者の呆然とした表情が浮かび上がった。

 

 

「チェスじゃ……ない……?」

 

 

 光で明らかになった姿は、まだ幼い子供だった。ツンツンと跳ねた癖の強い髪と、大きな瞳が印象的な少年だ。

 ナナシは敵の意外な正体を見つめながら、短く答える。

 

「ああ」

 

 与える情報は、まずは最低限に。

 困惑する少年の目が、ナナシの耳元を捉える。

 ……なるほど、ピアスを付けてないことを確認したのか。

 記憶のないナナシはまだ目にしたことはないが、チェスは階級を示すピアスと仮面をつけているという話だ。

 

「チェスでないなら……何者だ」

 

 子供は見た目にそぐわぬ鋭い眼で、こちらを見据える。警戒心はまだ解かれていない。ナナシは正直に答えた。

 

「盗賊ギルド・ルベリアのもんや」

「ルベリア……」

 

 少年はナナシの姿をじっと見つめて繰り返した。絞り出すように向けられていた敵意が鳴りを潜め、同時に張り詰めたような魔力が消え失せる。

 魔力の限界のようだった。身の丈に合わない長さのロッドがARMに戻り、少年のズボンのチェーンへと戻った。

 

 

「そうか……間違えて、すまな、かっ、た」

 

 

 少年は大人びた口調で言いかけたが、その言葉が不自然に途切れた。

 小さな身体がふらついたあと、ふらりと横倒しになる。

 雨の中ばしゃりと、幼い体躯が水たまりに沈む。

 

「ちょっ、君ィ!?」

 

 ナナシは慌てて駆け寄った。一瞬罠かもしれないという考えが、思考の端を掠めたが迷いはなかった。濡れた草むらに倒れ伏したままの少年の身を起こす。

「どないしたん!? しっかりせぇ!!」

 何度か体を揺するが目を覚まさない。全身びしょ濡れでぐったりとした少年は、ナナシの腕の動きで力なく頭を揺らすだけだ。

 しばらく呼びかけ続けていると、近くの茂みから、ナナシの握りこぶし程の小さな影が飛び出した。

 

「アルに何すんのよー!! 馬鹿ーー!!」

「へ? わっ!」

 

 小さな影が顔面にアタックしてきた。拍子に少年の身体がナナシの手から離れ、地面に再び落ちる。

 すると間合いを取るように旋回した影が、すかさず少年とナナシの間に入り込み、立ち塞がる。

 

「妖精……?」 

 

 小さな乱入者に驚いたナナシがまじまじと見つめる間も、女の子はきゃんきゃん喚いている。

 

「アルヴィスを傷つけるつもりなら、ベルが相手になってやるんだから!!」

 

 妖精は倒れた少年を守るように、ばっと両腕を広げた。

 その顔は雨に打たれた以外にも、涙で濡れて滲んでいる。小さな身体で懸命に、己よりもずっと大きな人間の男であるナナシを見上げている。

 怖いのだろう。本能的に少し肩を震えさせながらも、それでもナナシを必死に睨みつける。

 その様子に、ナナシは嵐の中だが居住まいをただすと、彼女に正面から向き直った。

 

「……自分は、その子に危害を加えるつもりはあらへん」

「嘘! あんたチェスなんでしょ!!」

「ちゃう。自分はチェスやない」

 

 先ほども少年に告げた言葉を、もう一度繰り返した。妖精の少女は疑い深くナナシを観察している。

 

「自分は盗賊ギルド・ルベリアのボスをしとる。けど、この子からなんか盗む気はあらへん」

「…………」

「……こんまま濡れてたら、みんな風邪引いてまう。どっか雨宿り出来るとこ、知らん?」

 

 切々と訴えるナナシをじっと見ていた少女は、瞳から剣呑な光を段々と消していった。 迷う視線が、地面に倒れる少年とナナシを見比べた。

 

「……こっち」

 

 どうやら信用してもらえたのか、妖精はくるりと向きを変えると、森の奥へと羽を羽ばたかせた。

 ようやく息をついたナナシは、倒れ伏す少年を抱える。かすかに熱いその身体は、浅く忙しない呼吸をしている。

 せめてこれ以上濡れないように、しっかりと腕に抱きしめると、ナナシは妖精の彼女を追った。

 

 

 

 

 

 

 

「えらい天気やね。こりゃあ朝まで止まんな」

 

 洞窟の入り口から夜空を仰ぎ見ると、雨粒が当たりそうになったので慌ててナナシは頭を引っ込める。

 妖精の少女が案内したのは、森の中にぽつんとあった洞窟だった。

 天然の小さな隠れ家とでもいったところか。林の合間にあった岩場にできた空間は、ひんやりとした空気で満ちていた。奥行きはそこまで深くない。

 ごつごつとした岩肌は、降りしきる雨でじっとり濡れている。

 本来ならば遠慮したいところだが、この悪天候ではそうもいかない。

 ナナシはすでに水浸しになっていた入口を離れると、洞窟のやや奥、乾いていた地面に寝かせた少年の元へ戻った。

 雨水に浸してきた布を額に乗せてやる。そのあいだも、少年は苦しげに呼吸を繰り返していた。

 ……倒れた少年は、熱を出していた。布の上から手を載せると、じんわりと酷く高い熱が伝わってきた。その側に座り込んだ妖精の少女が、心配そうに彼を見つめている、

 

「この子、なんか病気でも持っとるんか?」

「……ううん。病気じゃない」

「そやったら何で? 風邪には見えへんけど」

「……私が話すことじゃないもん」

 

 ナナシは問いを続けるが、少女はぷいとそっぽを向いた。どうやら完全に心を許してくれたわけではないらしい。思わず苦笑いが浮かぶ。

 

「……だから今日は、街に泊まろうって言ったのに」

 

 ぼそっとした小声で少女がつぶやいた。

 横にいるナナシに聞かせるわけでもなく。こんな天気なのに無理して、と独り言のまま、泣きそうな声で彼女はさらにつぶやいた。

 

「……それは、森の手前にある街のことか?」

「……うん」

 

 ふむ、と思案したナナシは、少年の思惑に納得した。

 

「……嬢ちゃんは知らんかもしれんがの。あの街は夜、めっちゃ治安が悪いんや」

「……え?」

「前の戦争の時、チェスの奴らが牛耳ってた時があってな」

 

 ナナシの話に、少女が驚いて首を向ける。そもそもの身の大きさの違いから、見上げるようにしてナナシを窺う。

 

「表側はだいぶマシになったけど、裏通りでは今も犯罪が横行しとる、物騒な場所や。そんな場所に、夜入るのは命取りやと思ったんやろ」

 

 賭博場や酒場などもあるため、ナナシのような生業の者には、景気づけと情報収集にうってつけであるが。

 幼い子供が一人で入って、無事に済む保証がある場所ではない。

 

「しかも珍しい妖精の女の子も一緒や」

 

 彼女ははっと顔色を変えた。ばっと正面へと向き直り、苦しそうな寝顔を見つめる。

 

「その判断は正解やと思うで」

「……アルヴィス……」

 

 少女はなんとも言えない声色で、少年の名前を呼んだ。

 その反応に、ナナシは小さく微笑した。理由を詳しく明かさずに、連れの少女を守ろうとしていた少年の思いが報われたことに、そっと胸を撫で下ろす。

 改めてナナシは、思いがけず共に過ごすことになった二人を観察する。

 明るい所で見ればかわいらしい顔立ちすらしているのに、クラスの高いARMを使いこなす子供。

 その彼を守ろうとした、小さな妖精の少女。

 ただの旅人にしては、アンバランスな、二人。

 ナナシはその疑問を、正直に口にした。

 

「それにしてもキミ、何でこの子と一緒にいるん? 妖精っちゅうんは普通人里には近付かんもんやろ?」

「ベルは違うの!」

 

 少女はむーっとかわいらしい頰を膨らませ、抗議するように声を荒げた。

 そして小さな身体で胸を張るようにして宣言する。

 

 

「アルヴィスのことは、ベルが守るって決めたの!」

 

 

 ……守りたいはずの女の子に、影でこう言われているとは……。

 男としては少し複雑だろう。ナナシは眠る少年の心中を思い、ちょっぴり彼のプライドを心配したりした。

 そんな風にしばしの間、ナナシは少年を看病しつつ、ベルという名の妖精と会話をした。

 二人は少し前から共に旅をしているのだという。時々離れる時もあるが、いつも一緒なのだと。

 夜半をすぎたころ、ベルが目を何度か擦りながら、うとうとし始める。

 疲れていたのだろう。こっくりこっくりと舟を漕いだ頭を彼の身体に寄せ、薄緑色の羽を閉じて眠る少女に、ナナシは持っていたハンカチを毛布代わりにかけてやった。

 雨はまだ、止まない。

 

 

 

 

 

 

 それから数時間。

 見張りをするナナシも眠気に負け、時折うたた寝をしていた。

 洞窟内に響くのは、変わらない雨音だけ。意識は外に向けつつも、知らず目を閉じてはまどろみに沈むことを繰り返していた。

 ふいに、少年が小さな声を漏らした。

 

「う……」

 

 まつ毛が震え、ゆっくりとまぶたが上に開き、大きな瞳が現れる。海のように深く青い色。まだ熱があるのか、青い瞳はまるで水面のようにぼんやりと潤んでいた。

 

「あ、気ぃついた?」

 

 ナナシは彼を覗き込む。少年は視界の焦点を合わせるように瞬きをして見返す。

 

「お前は……さっきの……」

「急に倒れたから驚いたで。ここはさっきの場所からそう離れとらん、洞窟ン中や」

「! ベルは……」

「妖精の子ならここやで」

「…………」

 

 飛び起きそうになった少年は、パートナーである少女が安らかに眠る様子を確認して安堵の息を吐いた。

 力を抜いた体が、地面に沈む。額に乗せられたタオルに気付き、少年はナナシに目を向けた。

 

「……あんたが、助けてくれたのか」

「ああ」

「………なぜだ?」

「え?」

 

 少年が訝しげに尋ねる。

 

「勘違いとは言え、オレはあんたに攻撃した。それなのになぜ助けたんだ?」

「なんでって……」

 

 唐突な問いに、ナナシは言葉に詰まる。

 皮肉などではなく、ただただ戸惑った顔で自分を見てくる少年を眺めながら、ナナシは考える。

 

 ナナシの中にある良心が、見捨てておけなかったから、とか。

 あるいは、雨の中ボロボロになっていた少年に、無意識に誰かを重ねてしまったから、とか。

 かつて、ガリアンに命を拾われた自分を、思い起こしたかもしれない、とか。

 

「……理由なんて、どうでもええやろ」

「………」

「君みたいな小さい子や、こんなかわいい女の子を、雨ん中置き去りになんてできへんわ。自分、そこまで鬼じゃあらへん」

「……」

 

 少年はしばしの間、その深海のような瞳でナナシの真意を推し量るように見ていた。

 だがやがて納得したのか小声で「……そうか」と言った。

 無理に力んでいた肩が、ほんの少し緩んだように見受けられた。

 ナナシはいつもの笑みを浮かべると、地面に置いた足をくずす。

 

「自己紹介がまだやったな。自分は盗賊ギルド・ルべリアのボス、ナナシや」

「ナナシ……」

 

 少年は繰り返した。

 

「変わった名前だな」

 思ったことをそのまま口にした彼に、ナナシはにへらと笑う。

「よう言われるわ。……君は?」

「え?」

「君の名前は?」

「……アルヴィス」

「アルヴィスか」

 

 ええ名前やな、と言ったナナシを、アルヴィスと名乗った少年はしばらく不思議そうに見つめていた。

 

 

 

(続く)