通り雨<後編>

 

 

 

 

「……自分でもうまく説明できないんだが」

「うん」

「はっきりと覚えてはいないのに、なぜか忘れることができない、そんな記憶があって」

 

 アルヴィスには、戦争終結時からここ数ヶ月の記憶で、曖昧な部分がある。

 手に入れた覚えがないARMなどは、その記憶の一部かもしれないと思っているが、根拠はない。

 ベルと一緒に旅をする前だったから、事実を確かめることはできていない。

 

 

 ……かすかに思い浮かぶのは、うっすらと霧がかかったような風景。

 その中で、いつか聞いた気がする言葉。

 

 

『……しき運命を…った少年よ。そな…も……だろう』

 

 

 それはダンナを失ってなお、アルヴィスの中に根付き、今も消えずにある

 

 

『メルヘヴンに燦然と輝く……』

 

 

 漠然とした、「希望」というもの

 

 

「本当にあったという確証もないのに。オレは、ずっとそれを信じているんだ」

 

 

 いずれファントムが復活するとわかっているのに、今はまだ何もできないという現状。

 行き詰まっているとしか言いようのないこの日々で、アルヴィスはそれらの記憶をまるで拠り所のようにしていた。

 

 

 夢でないと言い切るには、あまりに不確かだけれど。

 否定するのは、なぜだか心が拒否をする。

 

 

「……そんなことは愚かだと、おかしいと、思うか」

 

 

 アルヴィス自身も要領を得ない話だと思ったが、ナナシは変な顔をすることもなく、耳を傾けてくれていた。

 

 

「………せやねぇ」

 

 

 のんびりと間延びした相槌だったが、声には真剣味が混じっていた。

 

 

「たしかに人間、形があるもんの方がわかりやすいし、信じやすいけど。その気持ちはわかる気がすんな」

「……なぜだ?」

 

 

 わずかに身を乗り出すようにして、アルヴィスはさらに尋ねる。

するとナナシは、不意に肩をすくめて見せた。

 

 

「あんな、自分には、なーんもないんや」

「……何も、って?」

「昔の記憶も、何もかも、や」

 

 

 あっけらかんとした調子の声とは落差のある内容に、アルヴィスはつい言葉を失ってしまう。自分よりもずっと背の高い、目の前の大人の男の横顔をじっと眺める。

 

 

「自分がどこの誰で、何をしてたんか。身内や知り合いはおるのか、そういったこと、ぜーんぶどっかに忘れてきてしもた。たまたまルベリアのモンに拾われて、今はそこにおるけど。もし何かがちがってたら、ぜんぜん別の暮らししとったのかもなぁとか思うこともあるで」

 

 

 虚空を映していた瞳を、ナナシはアルヴィスへと向けた。それには不思議と、力強さがあった。

 

 

「せやけど、知ってることはある。食いもんでこれ好き、とか、嫌いとかな。それに、うっすらやけど思い出せることもある。……もしかしたら、体が覚えとるのかもしれんなぁ」

「……体が?」

「ああ」

 

 ナナシがちらりと、自身の指に嵌めたARMへと視線を移した気がした。彼の両手の中指に対のように嵌められた、目玉を象ったデザインが印象的なものだった。

 

 

「忘れても覚えていることがあるとしたら、それはきっと、本当に大事な何かやと思うな」

「大事な……」

「せや。たとえば……誰かに伝えたり、受け継いでいくためのものと違う?」

「継ぐ…………?」

 

 

 その言葉に、アルヴィスは懐かしい声を思い出した。

 

 

『———思いを継げば、それはけして消えない。それが希望』

 

 

「…………あ……」

 

 

 そうだ。

 アルヴィスは、すでに知っている。

 死でも揺るがぬものがあると。

 人から人へ、紡がれていくものがあると。

 

 

「だから、ええんやないかな。それを信じるのも。別に愚かでもおかしくもないんやない?」

 

 

 たとえ曖昧なものであっても、信じていたいのは。

 魂がたしかに、覚えているからかもしれない。

 記憶から失われても、体の奥底に刻まれたから。

 その時震えた心が、無意識に叫んでいるのかもしれない。

 忘れたくないと。信じていたいと。

 

 

「……そうか」

「……どや? ちょっとは気ぃ晴れた?」

 

 

 背丈のちがう視線を合わせるように、覗き込んで聞いてきたナナシに、アルヴィスはしばし考える。

 

 

「……そうだな。晴れたというか……」

「うん?」

「なんだかオレ以上に、抽象的な話だと感じた」

「ま、まぁ、せやね……曖昧っちゃ曖昧やね……」

 

 

 アルヴィスの直球な物言いに言い返せず、ナナシはボリボリと頭を掻きながら苦笑する。

 

 

「…………でも」

 

 

 小声で続いた言葉に、ナナシは再びアルヴィスに顔を向ける。

 雨音に紛れて、空気が小さく揺れる気配がした。

 

 

「アンタがそう言うなら、信じてみてもいいかもしれない」

 

 

 深い海のような瞳に、悪戯な光を宿らせて。

 素直じゃない少年が微かに笑った。

 それにほんの一時、バンダナの奥の目を見開いたあと。ナナシもまた静かに口の端を上げた。

 

 

 

 翌朝。一晩中降り続いていた雨はすっかり止んで、空には太陽が顔を出していた。

 ゆっくりとした速度で、頭上でちぎれ雲が風に流れていく。

 

「この先をしばらく行くと、三叉路に行きあたるはずや。そこを西に行くと、街道にいけるはずやで」

「わかった」

 

 洞窟の前でナナシの指差す方角を見つめて、アルヴィスは頷いた。回復したアルヴィスに飛び付いて喜んでいたベルは、相変わらず胡乱げな目つきでナナシを見ていた。

 それにめげた様子も見せず、ナナシは手をひらりと上げて歩き出す。

 

「じゃあ、気ィつけてな」

「…………」

 

 数歩進んだ先で「……あの」と呼び止める声がして、ナナシは振り向いた。

 声の主のアルヴィスは、両手を小さく握り込むようにして立っている。

 

 

「……助けてくれてありがとう。……ナナシ」

 

 

 沈黙のあと続いた言葉に、アルヴィスの傍にいたベルが、目をまん丸くして彼を見上げた。

 びっくりしている彼女の視線から逃れるように、アルヴィスは目を逸らす。

 その二人の仕草と、初めて呼ばれた名前に。くすぐったさを覚えながら、ナナシは屈託なく笑った。

 

 

「……どういたしまして」

 

 

 もう一度、先ほどよりもわずかに時間をかけて、ナナシは手を上げた。

 

「ほならな」

「……ああ」

 

 少しの間だけ背中を眺めたあと、アルヴィスも背を向けた。

 また、という言葉は使わなかった。次会えるかはわからないから。

 混沌とした時代。その中で、それぞれの日常へと戻っていく。

 

 やがて運命の巡り合わせが、再び彼らを引き合わせることを

 

まだ、誰も知らない。

 

 

 

END

 

 

 

クラヴィーア探しの旅を一旦終えた頃のアルヴィスとナナシです。

アルヴィスがナナシに心を開く、その理由付けとしてまず「ナナシがダンナと同じ異界の人間である」という部分を掘り下げることは決めました。

それ以外に何かないかと考えたところ、ゲーム版のみに限りますが、二人の共通点に「記憶を失っている」ということがあることに思い至りました。

ゲームをプレイした方はご存知かと思いますが、アルヴィスは6年前のクラヴィーア探しの記憶の一部を、未来のアルヴィス自身の願いによって失っています。

それが「忘却のクラヴィーア」というゲームタイトルへと繋がるわけですが、ナナシもまた、元々が記憶喪失な上、ガリアンの手によってルベリアのボスを継いだ記憶を失っています。

この意外な共通点が活かせるなと思い、探りながら書いた次第です。

失っても継ぐもの。それがナナシにとってのルベリアであるように、アルヴィスにとってのダンナの言葉を対比とする、いう流れになりました。

 

後半部分のアルヴィスの心情が難しくて、なかなか難産だった作品ですが、その分気に入っています。

ご拝読くださり、ありがとうございました。

 

2022.7.18