別れ路

 

 

 

 ファントム…… ファントム……

 

 

 誰かが自分を呼んでいる。

 何度も聞いたことのある声で。

 高く澄んだ、女の子のものだ。

 フルートの音色のようなそれは、忘れかけていた恋慕という気持ちを呼び起こす。

 

 

 そう、この声を、自分はよく知っている…

 

 

「ファントム」

 

 

 曇っていた意識が明瞭になり、ファントムは瞳を開いた。

 

 天高い蒼穹を思わせる、長く美しい青の髪。

 海風のようになびく、透き通った姿。

 柔らかな曲線を描く唇で、微笑みを象る、彼女は。

 

 初めて恋をした、女の子。

 

「……アルマ?」

 

 何年振りかに呼びかけた名前は、ファントムの心を想像以上に震わせた。

 

「やっと届いた。貴方の心に……」

 

 そして返ってくる彼女の声も、記憶にあるものと寸分変わらない。

 これは、夢なのだろうか。六年も前に死んだはずの彼女と会えるなんて。

 

「……どうして、君が………」

「……青い彼が持っていた鍵のARM」

「……プリフィキアーベェ?」

「あれは私が金色の子に託した物よ。私たちを解放してくれたお礼に…」

 

 夢の中で会話を交わせたのは、初めてだった。

 

「きっと彼から受け取ったのね」

 

 彼女が笑顔を見せたのも、初めてだった。

 

 今までファントムが夢に見た彼女は、悲しそうな顔しかなく。

 何か言いたげな目をして彼に背を向け、歩き去って行くだけだった。

 それは、彼女との最後の記憶だった。

 数日後、彼女はキングの手にかかり、ファントムと会うことは二度となかった。

 クィーンに不死を砕くARMを預けられたまま、この世を去った。

 

「ヴェストリの地底湖……ギンタがガーゴイルを見せた時か」

 

 船ごと封印をされた其処に行っても、彼女が彼に姿を見せることはなかった。

 何度足を運んでも、ぼろぼろになった無人の船だけが彼を迎えた。

 やがて、キングとクイーンによる世界を浄化する計画が始動し、実行部隊に据えられたファントムは義勇軍・クロスガードと戦った。

 その合間にも、彼女の眠る地底湖を訪れたが、会うことは終ぞなく。

 そして、死んで。

 彼女の嫌悪していたゾンビタトゥの力により、また蘇った。

 

 六年振りに訪れたファントムがあの場を去った後、ギンタに鍵を託したということは、彷徨っていた幽霊たちのように彼女も彼に希望を見出したのだろう。

 

 

 不思議と、怒りは湧かなかった。

 裏切られたとも思わなかった。

 地底湖に足げしく通ったのにも関わらず、会えなかったことも腹は立たなかった。

 不死を受け入れる旨を話した当初から、彼女は最期まで反対していたのだから。

 

 

「……アルマ」

 

 この名前を、ずっと呼びたかった。

 

 君と話をしたかった。

 

 

 ファントムとアルマは真っ白な世界にいた。

 途切れなく霧が立ちこめる空間に、二人きりだった。

 

 

 

「……君がキングに殺されたと知った時、悲しかったんだ」

 

 

 

「でも涙は出てこなかった」

 

 

 あんなに愛していたのに。

 全てを捨てられるほど、焦がれていたのに、自分は。

 

 キングの口から「殺した」と聞かされて

 解ってくれないなら仕方がないと、彼女の死を受け入れてしまった。

 

「………君の言った通りだったよ」

 

 愛なんて知らないと、置いて逝った両親を恨み

 心を通わせた数少ない友人を失い、それでも己が正しいと信じて戦った。

 だがオーブとクィーンの言うがままに手に入れた永遠の強さは、かつて相打ちで散った男の息子に砕かれた。

 脆く、儚い有限を生きる彼らに、自分は超えられてしまった。

 

 

「父さんに母さん、ペタ、そして君さえも失ったのに、僕はまだ生きている……」

 

 

 まるで自分を呪うように声を押し出すと、ファントムは幼子の表情になって呟いた。

 

 

「もう僕のことを解ってくれる人はいない……」

 

 

 アルマは髪と同じ色をした瞳を細めた。

 

 

「……貴方は沢山の人に愛されているわ」

 

 

 ぼんやりと顔を上げたファントムに、アルマは両手を広げてみせる。

 

 

「感じるでしょう? 私達を包む暖かい力を」

 

 

 言われてファントムは周りを見渡し、最初から当然のように存在する事実に気付く。

 ___そう。彼女の言うように、光が伝わってきているのだ。

 世界の果てから、二人を照らす、光が。

 

「……これは……」

「……薄茶色の彼が頑張っているわ」

「……ロランか?」

「それと、赤と黒の女の子もね」

「……キャンディス」

 

 ウォーゲームに負けた後も、付いてきてくれた二人。

 歪んでいる自分を、心の底から慕ってくれた。

 

 

 望まれて、いる。

 

 僕は、愛されている。

 

 

 

「……ファントム。愛することを恐れないで。そして愛されることを、恐れないで」

 

 

 

「確かにそこに喪失の痛みはあるわ。でも愛されていた時間は消えない」

 

 

 

「心にいつまでも留まって、そして、貴方を生かすの」

 

 

 

「今の貴方なら、わかるでしょう?」

 

 

 

 ファントムは、静かに首肯した。

 以前否定したアルマの言葉が、今は実感を伴ってファントムの中に染み込んでいた。

 今ファントムが生きているのは、息子を殺すことが出来ず死を選んだ両親や、思想を理解してくれたペタ、城からの脱出を助けてくれたロランやキャンディスがいたからだ。

 永遠ではない。人の想いに、自分は生かされている。

 

 

 愛されて、いる。

 

 

「……貴方はまだやるべきことがあるわ。あちらの世界に戻りなさい」

 

 ファントムが素直に頷くと、アルマの透き通った身体が光を帯びて、少しずつ、霧の中に薄れていく。

 

「……アルマ」

 

 もう会えないのかと、声にしなかった問いを読んだかのように、アルマは優しく微笑んだ。

 

 

「こっちで会えるかはわからないけど、待ってる」

 

 

 

「愛してるわ、ファントム」

 

 

 

 

 最後に囁かれた言葉が、ファントムの身体をそっと包んだ。

 

 

 

 

 

 

「ファントム! 良かった……目が覚めたんですね」

「……ロラン……」

 

 白の世界で感じた暖かい魔力を携えたロランが、喜色満面の表情でファントムを見てくる。

 ラストバトルで負った傷の所為か、玉座に座したまま眠りに落ちていたらしい。

 足元に屈み込む彼の手には、見慣れない形状のホーリーARMが握られていた。

 

「…………ずっと、こうしててくれたのかい?」

「さっきまで、キャンディスさんも手伝ってくれていたんですけれど」

 

 魔力の使い過ぎでかなり消耗されていたので、先に休ませましたというロランの言葉に、体が随分軽くなったことを自覚する。

 彼の回復を確認したロランは嬉しそうに立ち上がるが、すぐその場に座り込んでしまう。

 

「ロラン!」

「あはは……少し疲れてしまいました」

 

 乾いた声で笑いを零す彼に手を伸ばす。

 ファントムの眠っている間、つきっきりで魔力を注ぎ込んでくれたのだろう。

 

「僕なんかの為に……馬鹿だよ、君は」

「馬鹿でいいんです」

 

 ロランは綺麗な顔に疲労を滲ませつつも、何日振りかに見る清々しい顔で屈託なく笑う。

 

 

「貴方が好きですから」

 

 

 他意のない真直ぐな言葉に、ファントムは知らず胸を熱くさせられる。

 

 

 “貴方は沢山の人に愛されているわ”

 

 

「気付きたくなかっただけかもね……僕は……」

「……ファントム?」

「ファントム様」

 

 ここではない何処かを見て呟いた彼に、気遣わし気に声をかけた途端、背後から聞こえてきた低い声音にロランは慌てて背筋を正した。

 

 疲れを覚える体をしっかり立たせると、アンダータで目に見えるほど狼狽した様子のカペルがやってくる。

 おや、とロランは内心目を丸くした。

 常に人を食った態度で、平静を保つのが得意なこの男にしては珍しいことだったからだ。

 

 ファントムの前にひざまずき、カペルは一瞬ためらったが一息に言った。

 

「ご報告いたします。アルヴィス様が亡くなられました」

「え……!?」

「やっぱり、そうか」

 

 思いがけない知らせに声を上げたロランに対し、ファントムは表情を変えなかった。

 

「……お気付きでしたか」

「ああ」

「ほ、本当なのですかファントム。アルヴィスが死んだと言うのは……」

「……彼の涼やかだけれど、激しく燃える焔のような魔力が感じられなくなったからね」

「そん、な…………」

 

 言葉を失ったロランを視界に入れつつ、カペルは面を伏せたままファントムに報告を続けた。

 

「ゾンビタトゥの魔力に自我を奪われた後、自ら望んでギンタの手にかかったようです」

「そうか………彼らしいね」

 

 結果をどう思ったのか、ファントムはいつもの微笑を浮かべ、暫く瞳を閉ざした。

 

 

「カペル、今までありがとう。突然呼び出してすまなかった」

 

「キミたちの仕事はもう終わりだ。これからは好きにするといい」

 

 流れるように告げられた宣言に、カペルは目を見張り、わずかに身を乗り出す。

 

「我らがお役に立てることは、もう無いのですか」

「残念だけど」

 

 短い肯定に、カペルは口をつぐんだ。

 

「…………わかりました。では我らはこれにて失礼致します」

 

 冷たい石の床をマントが音もなく滑り、細身の身体が立ち上がる。 

 

「短かったですが、貴方様と過ごした時間は得難いものでした」

 

 飄々とした口調の中に偽りでない誠実な想いが見受けられ、気に入らない所も多々あったが、彼もファントムに忠誠を誓い、命までも捧げる覚悟であったのは同じなのだと、ロランは今更ながら知る。

 黙礼をし、玉座に背を向けた彼の長身が消え、同時に城からいくつもあった彼の部下の気配も消える。

 ゴースト・チェスとそのリーダー・カペル・マイスターは、パルトガイン島からいずこへと消えた。

 

「呪いに翻弄されながらも、アルヴィス君は尊厳ある死を選んだか」

 

 二人だけとなった広間に響いたファントムの声に、ロランは呆然としていた意識を現実に戻される。

 

「潔い生き方だ。出来るなら散り際くらいは綺麗にしたいね」

 

 そして続く言葉に、微かに微笑んでいるような彼の横顔を思わず見つめた。

 

「ファントム……もしかして……」

「ファントム」

 

 ロランの問いを、女性の声が遮った。

 二人が首を動かすと、広間の扉に手をかけたキャンディスの姿があった。

 いつも強気な印象を与える左目は、今は目に見えて揺れていた。

 

「アルヴィスが死んだって……本当?」

「……本当だよ」

 

 唐突に訪れた事実と意外なほど落ち着いているファントムの反応に、彼女もやはり動揺を隠し切れない。

 

「……アイツ……何で」

「永遠を拒んだんだ。自ら死を選んだらしい」

「……馬鹿な奴」

 

 ぼそっと、キャンディスは吐き捨てた。

 

 アイツとか、アルマとか。

 ファントムが選ぶ奴は、馬鹿ばっかりだ。

 

 皆ファントムを一人ぼっちにして置いていく。

 

 こんなに想っている自分には、一生得られないものを手にしてるのに。

 

「キャンディス、こっちにおいで」

 

 歯痒さに近い憤りを、愛しい人の声にキャンディスは解された。

 言われるまま、ブーツの音を響かせて彼の傍に近寄る。

 

「ロラン」

 

 穏やかな促しに、ロランも恐る恐るファントムの足元に身を屈める。

 二人の肩に、ファントムの両腕が置かれた。

 

「君達から貰ったものは、心地良かった」

 

 役に立つ駒としての興味しか持ってはいなかった自分を、二人は慕い助けてくれた。

 

「チェスの同胞は沢山いたけれど、ここまで付いてきてくれたのは君達だけだ」

 

 しかしどんな形であれ、自分という存在を認めてもらえるのは、幸福なことだった。

 今なら、言える。

 

 

「愛してくれて、ありがとう」

 

 

 

 傷付いた右腕と半分だけ残った左腕で、ファントムは二人を初めて抱き締めた。

 

 

「…………嘘みたい…………」

 

 うっとりとした表情で、キャンディスはファントムの膝に頭を乗せる。

 

「ファントムからそんな言葉が聞けるなんて……」

 

 頬を擦り寄せながら、知らず彼女は涙を流す。

 報われたいとは、思っていなかった。

 だから今になって、ファントムが自分達にこんな言葉をくれるとは思ってもみなかった。

 

「……死んじゃいたいくらい幸せなのに……」

 

 何故か、涙は止まらない。

 それはやっと訪れた喜びからか、一抹の不安を感じていたからか。

 気持ちの雫を、キャンディスはただ流し続けた。

 ファントムは何も言わず、彼女を優し気に見つめていたが、やがて口火を切った。

 

「……ロラン、アンダータを用意してくれるかな」

「……ファントム?」

「戻ろう、レスターヴァへ」

 

 驚愕しつつも真意を問う視線に、ファントムは続ける。

 

「いずれギンタが来る。僕はそれを待たなくては」

 

 ロランは、電撃に撃たれるような思いとともに、先程の予感が確信に変わったことを知った。

 やはり、ファントムは消えるつもりなのだ。

 死んだ彼や彼女を追いかける訳ではなく。

 このメルへヴンそのものから、消えるつもりなのだ。

 

「そんな……やだよファントム! 消えちゃ駄目!!」

 

 ロランよりやや遅れてファントムの意図を理解したキャンディスは、まるで彼を離さぬようにしがみついた。

 

「キャンディス、これは僕の務めなんだ」

「そんなの知らない!! ファントムが消えるなんて嫌!!

 どこか遠くに行こう? メルの奴らが来られない所に!! 私どこまででも行くから!! ファントムと一緒に行くから!!」

 

 彼女の悲痛な叫びは、声に出せないロランの気持ちをも代弁しているようだった。

 しかしファントムは至極冷静に、彼らにとって残酷な現実を告げる。

 

「仮にここから逃げ仰せたとしても、僕らに平穏な生活は望めないよ」

 

 チェスの象徴であるファントムとナイトの二人は、マジックミラーの映像を通してメルへヴン中に顔が知れ渡っている。

 ウォーゲームに敗北した今、民衆達は憎しみの対象である彼らを許すことはないだろう。それはロラン達にも容易に想像できることだった。

 

「それでもいいの!! 一生日陰で生きていくとしても、私は貴方と一緒にいたい!! 貴方が死ぬなら私も死ぬ!!」

「……消えるのは僕だけだ。君達まで消える必要はない」

 

 私も、と言葉を続けようとロランの意思を読み取ったように、ファントムはキャンディスの肩に手を乗せた後、彼にも静かな眼差しを向けた。

 その紫水晶の瞳に湛えられた深さに、キャンディスもロランも言葉を失う。

 

「僕という存在は、この世界の人間にメルへヴンを蹂躙した破壊者としか記憶されない」

 

 肌が大きく露出したキャンディスの肩に、僅かに力が籠る。

 

「そして生温い平和の中で、いつか忘れられる」

 

 そこで一度言葉を切り、ファントムはペタが死んだ時によく似た顔で続けた。

 

「……とても寂しいことじゃないか」

 

 思わず息を詰めたキャンディスに再び微笑みかけ、ファントムは彼女の髪に指を伸ばし、そして頬に触れた。

 

 

「僕と一緒に死ぬのではなく、僕を好きだと言ってくれた君達が、生きて、僕を覚えていてくれる方が…………嬉しい」

「ファン、トム………」

 

 

 そんなことを言われては。

 止めることなんて、出来ないじゃないか。

 

 

「うわあああああああああん!!!!!!!」

 

 

「ずるい、ずるいよファントム!!!!」

 

 

「貴方はもう、私の心を持っていっちゃったのに!!!」

 

 

「貴方がいない世界なんて、考えられなくなっちゃったのに!!!!!」

 

 

「うわああああああああん!!!!!!」

 

 

 三人しかいない広間に、キャンディスの涙と絶叫が響き渡った。

 ロランは何も言えず、泣き伏す彼女とファントムを見つめていた。

 彼女の長い焦げ茶色の髪を、なだめるように、ファントムがいつまでも撫でていた。

 

 涙を拭くように言われたキャンディスが席を外し、部屋には初めのようにファントムとロランだけとなる。

 

「どうしたの、ロラン」

「あ……いえ……」

 

 所在なく立ち尽くしていたロランは視線を泳がせ、暗い色の床に落ち着けて答える。

 

「アルヴィスさんが死んだなんて、まだ信じられなくて……」

 

 意識して変えていた呼び名は、過去のものに戻っていた。しかしその事にすら気が回らないロランの足元に、ふと、幾粒かの水滴が落ちる。

 

 

「……変、ですね……」

 

 

 ロランの両頬に、瞳から溢れた涙が伝う。

 

 

「あんなに憎かったのに……憎いはずだったのに……」

 

 

「彼には……生きていて欲しかったんです……!」

 

 

 ファントムに認められて、求められて。

 なのに頑なに拒絶して。かと思ったら、自分を騙してまで近付いてきて。

 彼を消そうとして。

 最後の最期まで、脆弱な人間の皮を選んだ、強く身勝手な人。

 

 

 ……それでも。彼と共に歩んでもいいと、未来を生きてもいいと、そう思わせてくれた人だった。

 

 

「……僕もだよ。彼の綺麗な瞳が、僕を射抜くと嬉しかった」

 

 

「……もしかしたら僕は、彼に止めて欲しかったのかな……?」

 

 

 地上に吸い込まれていくロランの涙とは逆に、天を見上げたファントムの眼(まなこ)には、今にも泣き出しそうな灰色の空が映っていた。

 

 雨音が響く中、静かに涙を流すロランの頭を、幼い頃のようにファントムは撫でてやる。

 くすぐったそうに笑う彼に微笑むと、おもむろに彼の腕を捲る。

 

「これとも、もうお別れだね」

 

 現れた文様に身体を強ばらせたロランは、微かに怯えたように体を引き腕を隠した。

 

「……消さないで下さい」

 

 大事な宝物を取られまいとするかのように首を何度か振り、片方の手でもう片方の腕を抱く。

 

「これが消えたら、ファントムとの繋がりが消えてしまう」

「……こんなものが無くても生きていけるさ」

 

 震える声で囁いたロランの腕から指を外して、ファントムは彼の手を取った。

 

「人間はね、大切なものを失くしても案外生きていけてしまうんだよ」

 

 

「……悲しいことだけどね」

 

 

 縋るような眼差しに、ファントムは付け足した。

 

 

「僕がそうだった。両親も、恋人も、信じていた親友すら失くしたのに、こうしてまだ生きている」

 

 

 胸の内を述懐し、紫紺の瞳は暫く虚空を見つめる。

 

 

「それは、愛とか夢が無意味であることの証だと思っていたけれど……」

 

 

 しかし夢の中の彼女を思い出し、ファントムはその表情を和らげ言い切った。

 

 

「どうやら違ったみたいだ」

 

 

 生まれてきたことも、ここに存在していることも、全て。

 人が人に生かされているという証であり、人の営み無くして人は存在しえない。

 今生きている世界から、消えてしまっても。

 誰かの残した思いを糧に、新たな命の生は紡がれる。

 そこに確かに、受け継がれていく『思い』という名の『永遠』は存在したのだ。

 

 

「だからロラン、君は生きるんだ」

 

 

 温度を持たぬ死人の手に、錯覚ではない暖かさを感じながら。

 ファントムの言葉に、ロランは最後に一粒だけ涙を零した。

 

 

 

 

 

 雨が止んだ。空は灰色の雲の間から、太陽が顔を出すのを待っている。

 

 

「さあ、行こうか」

 

 

 ファントムが二人に呼びかける。かつて仲間に号令をかけたように。

 ロランは黙って、用意したアンダータを発動させた。

 行き先はレスターヴァ。彼が死に場所と決めた城。

 彼を討つ者が来る場所。

 

 簡易的な王座にARMの発動した音が、長い間、いつまでも残っていた。

 

 

 

 

END

 

 

 

 

 

 予想以上に時間をかけてしまいましたが、漸く一つの区切りまで終わらせる事が出来ました。

 「涙に染まる雨」番外編です。

 ほぼプチ連載と化した割にページ数は少ないですが、一つ一つのシーンに沢山の気持ちを込めて、大事に大事に書きました。

 

 この話を書く上で要となったのは、やはりファントムの心情でした。

 原作ではラストバトルでの敗北の後、アルヴィスによる死を静かに受け止めましたが、アニメ版での彼はゴースト・チェスを使い、それまで語った事の無い「夢」を叶える為に再びMARと対立しました。

 原作と比較すると、消える前に一種の悪あがきのようなことをした訳です。

 そんな彼がどのようにして、94話『薔薇は散りてなお染まり』で「僕は愛されていたのかもしれない」と思うように至ったのか、アルヴィスに「君は人として生きるんだ」と言ったのか。

 原作やアニメを吟味して、完全に理解した訳じゃありませんが、彼らの心の一端を私なりに解釈しこの話を書きました。

 

 なおアニメのカペル氏はファントムに忠誠を誓いつつ、独断でクラヴィーアのARMを手に入れ、ファントムを心を持たない完全なる支配者に仕立て上げようとしていましたが、この話ではファントムに忠実な部下としました。多分パルトガインを脱出した後は、仲間達とどこか遠くの土地でのんびり暮らしているかと思います。若干ゲーム寄りの性格かもしれません。

 

 この後「夢で見たスカイ・ブルー」までの挿入話として、ギンタとファントムの決着もあるのですが、それについては書いた時に語るとして。(いつになるかは未定ですが/汗)

 本編からかなり時間が経ってしまいましたが、MARという物語を構成する一員であるファントム達についてもきちんと書いておきたいと思ったので、番外編という形でこの話を書かせて頂きました。

 メルメンバーの出ない完全に誰得な話ですが、少しでも皆様に楽しんで頂けるものであったら幸いです。

 最後までご拝読下さり、有り難うございました。

 

2011.8.1