Overflow 第七話

 

 

 

 それは今から三年前、キルアが九歳の時のことだ。

 父親に連れられて、彼はヨークシンを訪れた。幼い頃から生業としている仕事のためである。

 依頼内容はとある資産家を殺してくれというもので、父はその家の主人を、キルアは若い息子を担当した。

 仕事は早く終わった。人目に付かない夜に決行し、依頼主に報告する。ホテルに一泊した後、翌朝そのまま自宅に戻るかと思いきや、父はキルアを連れてその場所へと立ち寄ったのだった。

 

「なに、ここ?」

 

 いつものラフな格好とは違い、スーツを着用した父・シルバにキルアは訊ねた。

 彼に習って、キルアも子供用のフォーマルスーツを纏っている。正直窮屈で仕方なく、さっさと脱ぎたい気持ちでいっぱいだった。

 マフィアに厳重に警備されたビルの入り口を通り、豪華な印象を受ける茶色の絨毯を踏みしめ地下へ降りる。

 奧にある部屋まで行くと、受付らしき場所で父はいくらかの金銭を支払った。

 

「人体博物館(ミュージアム)だ」

「人体博物館……?」

「お前が扱う品の価値がよくわかる」

 

 淡々と答える父の横顔は、常と同じで感情の起伏がよくわからない。

 

「お前もゾルディック家の一員。命を扱う仕事をするならば、見ておいて損はないだろう」

 

 そこは入り口から独特の雰囲気を漂わせていた。

 博物館の名の通り、室内には様々な展示品が並べられている。しかし普通の場所とは違い、この施設には人間の内臓や骨、ミイラなど『人体』が展示されているのだった。

(うっげー、キモチわるっ)

 薬品で保存された大脳を見て、キルアは嫌そうに眉をしかめる。人の心臓を平気で握ったり潰したりとしているが、それらの行為は決して好きでやっているわけではない。ゾルディックの人間にとって、殺しはあくまで仕事である。だがこの部屋に飾られているのは、明らかに〝それら〟の嗜好の為に用意されたものだ。

 研究などの目的とは異なる、人の歪んだ形をした欲望。その為に作られた場所であることが、まだ幼いキルアにもよくわかった。

 係員らしき男に案内される父を他所に、キルアは時々順序を無視しつつ博物館をぐるりと廻る。見知った様々な人体のパーツに、とりとめのない感想を抱く。

 と、部屋の中央にある、筒のような形の大きな水槽が目に入った。

 その中に、何かが見える。

 

 …………人だ。

 

 

 他の品と同じ展示物の筈なのに、なぜか少しだけ、近付くのが躊躇われてしまった。立ち尽くすような形になった息子に、父が近付いてくる。

 

「ねぇ、オヤジ。あれって……?」

「……〝緋の眼〟だな」

「〝緋の眼〟……?」

「クルタ族が持つ赤い瞳のことだ」

 

 父はふん……と僅かに唸る様に息を漏らした。

 

「趣味が良いとは決して言えんな」

「……?」

 

 父の言葉の意味は、近くに行ってわかった。ガラスの前に立って見ると、他の物とは違い、〝緋の眼〟の彼がいる容器には水の流れがある。

 

 

 そう、生きているのだ。

 少年……だろうか? 年はキルアより上らしく、色素の薄い髪は水の色を吸い込み、青色みたいに見えた。作り物の様に細い手足をしており、瞳は固く閉じられていた。

 

「申し訳ありません。〝これ〟は鑑賞時間が決まっていまして、今は丁度眠らせている時間なのです」

「なるほど」

 

 案内人に父が短くいらえを返す。その会話を横で聞きつつ、キルアは不思議と彼から目を離せずにいた。

 チューブで繋がれた、人形のような姿。動く様子はなく、他の標本と同じただの物にすら思える。

 だが少年の微かに開いた唇から、小さな気泡が零れた。

 揺蕩う空気の泡は、水槽の上方へゆっくりと昇る。

 

(……ホントに、生きてる)

 

 惹かれるように、キルアは水槽に触れてみた。

 ガラスの奥の彼に、覚醒する気配はない。だがキルアはしばらくの間、水槽の前から動かなかった。

 

 

 未知のものへの憧れでも、恐れでもなく。

 閉じ込められている彼への哀れみでもなく。

 

 

 時を止めた物だけの空間で、ただ一つ、生きている匂いを感じさせる存在(もの)への、不可思議な感情を覚えながら。

 

 

 残像のように、その光景は、キルアの目に強く焼き付いた。

 

 

 

 

 

 翌日は、朝から雨が降っていた。

 春先の雨は思った以上に空気が冷え、レオリオは窓を閉じる。雨音が窓を通して、絶え間なくアパートに響く。

 昨晩泣き伏したまま眠りに落ちたクラピカは、レオリオが朝食を終えても目を覚まさない。

 無理に起こすのは憚られたため、レオリオは彼が自然と目覚めるのを待った。

 昼近く、クラピカが目を覚ました。少し腫れた瞼から覗く瞳は、昨日のような完全な緋の眼とまではいかないが、薄く赤いままだ。

 

「……起きたか」

「…………」

「気分はどうだ?」

「…………」

 

 視線が合わない。何を見る訳でもなく、クラピカの眼は只レオリオを映している。

 

「とにかく、まずは飯食えよ。でないと、いつまでたっても動けねぇぞ」

 

 声をかけ続けるが、クラピカは言葉を発さない。しかし状況は認識できているのか、言われるままクラピカは体を起こそうとする。

 いつものように介助しようと、レオリオは彼の肩と手に触れて気付く。

 …………少し熱い。

 体温計で測らせてみると、数値はやや高い体温を示していた。

 

「……少しだけど熱があんな。今日は休んどけ」

 

 昨日の熱がぶり返してしまったのだろうか。他の症状がないかと聞くが、クラピカは口を閉じたまま、僅かに首を振っただけだった。

 食事代わりに先日と同じゼリー飲料を渡す。だがレオリオの予想通り、クラピカの食はあまり進まない。半分も飲まずに止めてしまった。

 何とか栄養剤は服用させ、ベッドに体を横たわらせる。

 食事の間も再び横にされる時も、クラピカはほとんど反応を示さず、感情をどこかに置いてきたように表情を変えることはなかった。

 ただ瞳だけが、深い哀しみの色に沈んでいるのが傍目にもわかった。

 

『彼の精神面が心配だわ』

 

 クラピカを見つめるレオリオの脳裏に、昨晩センリツと交わした遣り取りがよぎった。

 

 

 

「良かったのかしら……話してしまって……」

 

 外から戻ってきたセンリツは、泣きながら眠ったクラピカを見て呟いた。

 レオリオは彼の目尻に残る涙を見ながら、沈鬱な顔付きで言った。

 

「……ずっと隠しておくわけにもいかなかっただろ。いつかはわかっちまうことなんだ」

「そうね…………でも彼にとっては、仲間の所に帰ることが『生きる原動力』だったと思うの」

 

 博物館にいた時、センリツが聞いた彼の心音はとても印象的なものだった。

 

 非人道的な所業を受け、哀れみすら感じせる姿をしながらも、伝わってくる確かな意志。

 薬で増幅された怒りの律動の中で響く、澄んだ音。儚い響きでありながら、決して消えない彼自身の心音(おと)。

 その音色に、センリツは心動かされたのだ。

 

「『絶対にここから出る』という強い意志。それが薬で身体をコントロールされていながらも、彼の中にあったのよ」

 

 だからこそ、心までは完全に支配されずに、クラピカは博物館を脱出することができたのだ。

 

「……でも、その理由がなくなってしまった……」

 

 センリツは先程まで聞こえていた、彼の悲痛な泣き声を思い出し顔を歪める。

 

「生きる原動力……か」

 

 彼女の言葉をレオリオは繰り返す。

 このままでは芳しくないというのは、レオリオにもわかる。生きようという意志が不治の病からの復活を果たすように、感情は患者の心身に強く作用する。

 

「もし……このまま、彼の生きる気力がなくなってしまったら……」

 

 センリツの声が、行き場所を彷徨うように宙に溶けた。

 

 

 気付くと、クラピカが意識を落としていた。

 レオリオは手を伸ばすと、ほとんど乱れていない上掛けをクラピカの首元にまで引き上げる。

 そのまま彼の横で、レオリオは自分の作業を始めた。

 

 その日一日、クラピカはベッドに横になって過ごした。

 眠るのと起きることを繰り返し、目を開けている間は何をすることもなく、ただベッドの上で天井を見つめるだけだった。

 雨は絶えず降り続き、音を奏でながら窓ガラスの外を流れていた。

 

 

 

 翌日の天気は晴れだった。

 雲の隙間から、柔らかな日差しが街に降り注いでいる。

 熱は下がったが、クラピカは昨日とほぼ同じような状態だった。しかし朝日が差し込む窓をじっと見つめていたので、外に行きたいのかと思い、食事の後、レオリオは彼を窓際へと運んでやった。

 軽い身体を運び、クッションなどを置いてクラピカが後ろに倒れ込まないようにする。

 カーテンを開け放し、持ってきた毛布をクラピカの膝までかける。身体を支えさせるように、腕は窓枠に乗せさせた。 

 レオリオが見守っていると、クラピカは殆ど持ち上げることのできない手首を動かし、窓に両の手の平を当てる。

 クッションに寄りかかっていた体の重心をゆっくりと前に移動させ、頭を傾けると、額を窓ガラスにこてんと持たせかけた。

 そのまま、ただ光を浴びてじっとしている。

 

 ふとクラピカが、目を閉じた。

 その目元から、何かが零れる。

 目を凝らさずとも、レオリオにはすぐにそれが何かわかった。

 

 

 ——クラピカの瞳から、止めどなく涙が落ちる。

 

 金色の髪の隙間から、涙の雫が、太陽の光に煌めくのが見える。

 まるで祈るかのように、光の差し込む窓際で涙を流す彼に、声もかけられず、レオリオは彼を傍で唯見つめ続けるのだった。

 

 

 

 その日の夜、早めに寝かせたクラピカを仕事帰りのセンリツに任せ、レオリオはゴンとキルアに連絡を取り、近くの喫茶店で合流した。

 顔を合わせた瞬間、三人は互いにクラピカの素性を知ったことを悟った。先日の集まりとは違い、どことなく重い雰囲気の中夕食を摂る。

 食後に頼んだエスプレッソコーヒーを少しずつ飲みながら、レオリオはクラピカから聞いた話を彼らにした。一方キルアは闇の掲示板で得た情報と、自身の三年前の記憶を語った。 

 合致する内容に、いよいよ眉を顰める。

 

「そのセンリツって人の話だと、追っ手のことはとりあえず心配なさそうなんだね」

「ああ。今クラピカのこと看てもらってる」

「その人が尾けられてる可能性は?」

「それは大丈夫だと思うぜ。彼女もプロのハンターで、なんかすげぇ耳が良いらしくてな。室内にいる人間を外からでも把握できるくらいだ。尾行には気付くだろ」

 

「そっか。その人もハンターなんだ。何のハンターなんだろ……」

 

 二人の話に口を挟まず、聞くのに徹していたゴンはそう言いながらしばし考え込む。

 

「……ねぇ、〝緋の眼〟ってそんなにすごいものなの?」

 

 今更な感のする問いに、キルアとレオリオは揃ってゴンの顔を見た。

 

「お前、ハンターなのに緋の眼のこと知らないのかよ」

「うん」

 

 当然のごとく頷くゴンに、キルアはわざとらしく溜め息を吐いてみせる。くじら島から出てきたゴンは何かと知らないことが多く、こうしたやりとりはもう何度目になるのかわからなかった。

 

「ま、オレもクラピカと会うまでは、ちゃんとは知らなかったけど」

「なんだ。それじゃオレと同じじゃない」

「同じじゃねーよ」

「同じだよ」

 

 キルアが少しふざけたように言うと、ゴンが拍子抜けしたような声を上げる。それにまたキルアがすかさず返し、ゴンが同じツッコミを入れる。子どもらしい二人のやりとりに、張り詰めていた空気をほぐされて、レオリオは無意識に入っていた肩の力を抜いた。

 二人の会話が終わるのを待って、レオリオはゴンに緋の眼の説明をしてやる。

 世界で最も美しい色と言われ、それが為に狙われたこと。

 コレクターの間で、非常に価値の高い品として取引されていること。

 

「掲示板で見た話だけど、昔行われたアンダーグラウンドのオークションでは数十億の値段が付けられたらしいぜ」

「クルタ族自体が元々少数民族だったらしいからな…現存する緋の眼の数が少ない分、更に値が上がったんだろう」

「だろうな。あの博物館でも、一番大事なものって感じだったし」

 

 己の見聞きしたことを淡々と補足し、キルアはオレンジジュースをストローで吸った。

 

「………だから?」

 

 話を聴き終えたゴンがぽつりと呟く。

 

「だからクラピカの仲間は殺されたの?」

 

 ゴンの顔からいつもの明るい表情は消え去り、声には静かな怒りが滲み出ていた。

 指でつまみ持ったストローを口から放し、ゴンを横目で見ていたキルアは、冷静に、しかしどこか悲しい様な瞳をして言った。

 

「……人が人を殺す理由なんて、簡単に生まれるんだよ」

「でも……っ! ……でも、そんなの、絶対間違ってる」

 

 机の上でゴンは手を震わせた。レオリオが静観する中、キルアは黙ってストローをいじくる。

 指を放し、キルアはストローをグラスの中に落とした。

 

「……オレもそう思うよ」

 

 氷の上にストローが落ちる微かな音と、キルアの言葉に、ゴンははっと気付いたように彼の方へ向いた。

 暗殺一家に生まれたため、幼少時から人殺しをさせられていたキルア。その彼を無神経に傷付けてしまったかと、不安げな面持ちで彼の顔を見た。

 だがキルアはそんなゴンに対し、緩く笑みを浮かべる。

 

「……わかってるって。お前がそういう意味で言ったんじゃないってことぐらい」

「うん……ごめん、キルア」

「謝んなよ。その方が気まずいっつーの」

「あ、ゴメン」

「ばーか。だから謝んなってば」

 

 キルアにデコピンをされたゴンは、額をさすりながら「……えへへ」と恥ずかしそうに笑った。

 彼らを眺めていたレオリオは、事の顛末にほっとした気持ちになりつつも、かねてからの気持ちを強くする。頃合いを見計らい、そっと話の口火を切った。

 

「……お前らはしばらく、こっちに顔出さない方がいいかもな」

「え? どうして!?」

 

 レオリオの発言に、ゴンは弾かれたように彼に振り向く。テーブルに身を乗り出す勢いで聞いてくる反応は予想していた通りのもので、心無しか苦みばしった顔でレオリオはコーヒーを啜る。

 

「……お前らを見たら、思い出しちまうかもしれねぇじゃねぇか」

 

 カップをソーサーに戻す。小さめの容器に注がれたエスプレッソは、もう残ってはいない。

 カップの底へ視線を落としたレオリオの脳裏に、数日前のクラピカの姿がよぎる。

 

『二人はとても仲が良いんだな』

 

 ゴンとキルアを見つめていた、クラピカの眼差し。

 あれはきっと、昔の自分を重ねていたのだ。

 幼い頃、家族や友人と過ごした大切な時間を、思い出していたのだ。

 

 何を? と聞かずとも、二人は答えを察したらしい。二人とも口を噤んでいる。

 

「こればかりは、あいつが自分で乗り越えなきゃいけないことだ。……心配する気持ちはわかるが、しばらく待っていてやれよ」

「でも……」

 

 何か言おうとゴンは口を開くが、言葉が見つからなかったのかまた黙り込む。

 

「待つこと……ね」

 

 考える素振りを見せた後、キルアは彼らしいドライな口調で問うた。

 

「それが最善の策だと思ってんの? オッサンは」

 

 しかしその口調とは裏腹に、表情には真剣さが見えていた。

 

「……さぁな」

 

 二人のまっすぐな視線を、逸らすことなく受け止める。

 

「何が一番良いかなんて、オレにだってわからねぇさ」

 

 無責任とも思えるが、レオリオは自分の思いを正直に告げた。

 

「けどお前らの手が必要だと思った時は、すぐに連絡する。……それじゃ駄目か?」

「……」

 

 キルアはじっとレオリオを見ていたが、やがて観念したようにふん、と鼻を鳴らした。

 代わりに隣でゴンが頷く。

 

「……わかった。心配だけど、オレ達はしばらく待ってるよ」

「ああ。……悪ィな」

「ううん。レオリオ、クラピカのこと、よろしくね」

「ああ」

「しっかり面倒見とけよ」

「……ああ」

 

 

 アパートの扉を開くと、センリツがこちらを振り向いた。彼女が付いていたクラピカは、まだ眠ったままのようだ。

 

「おかえりなさい」

「悪かったな、任せちまって」

「いえ。このくらいのことならお安い御用よ。何かあったらいつでも連絡して頂戴」

「ありがとよ。助かるぜ」

「どういたしまして。じゃあ、またね」

 

 帽子を被り、荷物を持ってセンリツは部屋を後にする。「お休みなさい」と言い置いた後、彼女は音を立てないようゆっくりとドアを閉じた。

 玄関の鍵をしっかりとかけ、レオリオはクラピカのベッドまで戻り腰を下ろす。

 眠るクラピカを見つめる。

 彼の顔に手を伸ばし、レオリオは細い金色の髪を撫でた。

 

 

 

 

第七話 終

 

第八話