Overflow 第八話

 

 

 

 

 全てを知った夜以降、クラピカは一言も言葉を発することはなかった。

 何を見ても反応することはなく、レオリオの問いかけには、首を振って答えるだけだった。

 光を失った瞳からは、緋色だけでなく、他の全ての色も消え失せていた。

 

 クラピカの心を占めていたのは、圧倒的な感情。

 

 悲しみを通り越したそれは、博物館の中にいた時よりも深い、絶望だった。

 

 

 

 雨が止み、外の喧噪が戻ってきても、クラピカの様子は変わることはなかった。

 全ては耳を通り過ぎるだけで、まるで凍り付いたかのように、クラピカの心は動かなかった。

 ただ、部屋の窓から差し込む光には、自然と手が伸びた。

 どんな生き物も太陽の光に焦がれ、集まる。そんな本能のようなものの為だろうか。動かない体を動かし、クラピカは窓辺に座っていた。

 何をする訳でもなく、ただ、光を浴びていた。

 ガラスに当てた指と額が、冷たい硝子と、太陽の温もりを僅かに感じるだけだった。

 

 陽が出ている間、クラピカはずっと窓辺に座っていた。

 窓を通して、虚ろな青い瞳に陽射しが差し込む。

 反射した光は、空っぽのような心に不思議と沁み、クラピカの瞳からは知らず涙が溢れた。

 同時に様々な想いが浮かんでくる。だがそれらは形を為すまでに至らず、すべて泡のように胸の奥に沈んでいった。

 

 ……誰かが傍で、話しかける声が聞こえた。

 けれど、声は頭の隅で反響するだけで、クラピカの意識は空虚なままだった。

 自分でもどうしようもないいくつもの想いを、口に出すこともできず、抱え込むだけで。他に何も考えられなかった。

 

 

 やがて、身体がどんどん動かなくなっていく。元々緩慢だった指の感覚が、更に遠くなっていく。

 食事の量も減る。緩やかに、肉体は死へと向かっていく。それをぼんやりと自覚しつつも、クラピカは動けずにいた。

 そうしているうちに、一週間が過ぎていた。

 

 

 

 雲一つない青空が広がる朝、クラピカはまた窓辺にいた。

 殆ど食べたとは言えない朝食の後、窓越しに空を見上げていた。

 

 少し伸びた前髪ごと、額を窓に当てる。

 伏せた瞼の上に光が当たる。目の裏の闇に惹かれるように、クラピカは瞳を閉じた。

 身体の全体重を窓へと預ける。その動作一つで、身体がすごく楽になるのを感じた。

 

 

 ————クラピカの体は、少しずつ、動くことを止めようとしていた。

 

 

 もう、涙すら流れなかった。瞳を開ける気力も起きなかった。

 このまま、眠るように、眼を閉じていようとすら、心のどこかで思っていた。

 意識が暗闇に溶けていく。

 

 

 

 

「……ラピカー……」

 

 

 かすかに誰かの声がした。

 クラピカは動かなかった。

 

 

「……ぉーい、クラピカー」

 

 

 もう一度声がした。それが自分の名前だと、クラピカは時間をかけて認識した。

 

 

 何度も呼ばれた。繰り返し、遠く向こうから。

 閉じていることに慣れ、重いとすら感じる目蓋を、クラピカは少しだけ開けた。

 真っ暗な視界に亀裂が入るようにして、クラピカの瞳に目の前の景色が映った。

 

 

「……え……」

 

 

 気泡のような呟きが、喉からこぼれ落ちる。

 クラピカの名を呼んでいたのは、よく見知った少年だった。

 

 

「クラピカー!」

 

 

 独特の文様が描かれた服。

 自分とお揃いの、金の縁取り。赤い服。

 栗色の髪と、優しげな茶色い瞳。

 

 

「……パイ……ロ……?」

 

 

 朝日の中を駆けてくるのは、クラピカのかけがえのない親友だった。

 別れたあの時のまま、しかし怪我の後遺症のない健康な足で、彼はクラピカへと向かい走ってくる。

 窓にいるクラピカをパイロは見上げる。二人の視線が絡み合う。

 

 ふと、クラピカをまっすぐ見ていたパイロが横を向いた。隣にもう一つ人影が増える。

 

 それはかつての自分だった。森を旅立った時の格好をした自分が、パイロと一緒にいる。

 パイロはクラピカの名前を呼びながら、隣の幼い彼に手を伸ばし、その手を握った。

 その光景を見た瞬間、暖かな手で掌を強く握られた気がした。

 森で駆け回った後の帰り道、手をつないだ時の熱がよみがえるような気がした。

 

 それは、一瞬の幻だったのだろうか。

 

 あの頃夢見ていた未来が、確かに実体となってクラピカの前に現れたのだ。

 いつの間にか、クラピカは目を見開いていた。

 深い水底に光が届くように、クラピカの視界に、光が溢れる。

 

 

 光が更に増して、パイロの姿がゆらめいた。

 

 

 幼い二つの影は、クラピカが見ている中、別々の少年の姿になった。

 緑色の袖が、大きく手を振る。

 

「クラピカー! おはようー!」

 

 アパートの窓を見上げて、路地から黒髪の少年が手を振っている。その横には、ポケットに手を突っ込んだ銀髪の少年がいる。

 

 

「……ゴ……ン、キル……ア……」

 

 

 数日間話すことを忘れていた喉が震える。

 クラピカは手を振り返すこともできず、ただただ目を見開いたまま彼らを見つめた。

 

 

「なんだ、やっぱりあいつら来たのか」

 

 

 すぐ傍から声がした。

 

 

「気になってしょうがなかったんだろうな。お前のこと」

 

 

 クラピカが首を動かすと、隣には仕方ねぇな、と笑うレオリオがいた。

 窓を覗き込むような姿勢をとる彼を、クラピカは振り仰いだ。

 

 

「……レ……オ……リオ……」

「ん? どうした、クラピカ?」

 

 

 この声。この声だ。

 この一週間、ずっと傍で聞こえていた声だと、クラピカは静かに気付いた。

 暗闇しかなかった心に、光が広がってゆく。

 

 

「ん?」

 

 

 黙って自分を見つめるクラピカを、朝日を受けながらレオリオは見つめ返す。

 

 

 

 春の柔らかな光が差し込む窓辺で、

 

 

 まるで、時間が再び動き出したかのような。

 

 

 そんな錯覚を、クラピカは覚えた。

 

 

 

 

 

 

 一週間振りに顔を出した二人は、相変わらず元気な様子だ。狭い部屋にぽんぽんと会話が飛び交う。

 

「体の調子はどう? はい、これお土産!」

 

 布団に戻されたクラピカの膝に、ゴンの手によってお見舞いの品が次々と乗せられる。

 

「こっちはオレが選んだプリンとゼリーで、こっちが……」

「オレのオススメのアイス。チョコロボ君のメーカーオリジナルのアイスバー! すっげー美味いんだぜ!」

「オレ達の分も買ってきたんだ。後で一緒に食べよ!」

「………」

 

 クラピカは聞かされるまま話を聞いていたが、膝の上の大量のお菓子が詰まった袋を、心無しか興味深そうに見ている。「溶けちまうから冷蔵庫入れとくぞー」とレオリオがビニール袋を取り上げる。

 

「ちなみに、オレはどれ食っていいんだ?」

「「え。」」

 

 ゴンとキルアの声が揃う。考えてなかった、という顔になる二人にレオリオも「え」となる。

 

「……なに、オレの分ないの? これ全部お前らとクラピカのか?」

「……ごめん、忘れてた」

「こんなにいっぱいあんのに、オレの分ないのかよ! ひどくねぇ!?」

「あ、でもこれ全部、クラピカが食べられるように、ちゃんとカロリー量や栄養成分とかを見て選んだんだよ。添加物とか、合成着色料が入ってない物の方が良いって聞いたから。ねぇキルア!」

「結構高かったんだぜ?」

「なるほど……そりゃオレが食べるのは筋違いだな……じゃあキルアくーん? 可哀想なレオリオさんに、チョコロボ君アイスを分けてくれたりなんかは」

「しねーよ」

「即答かよ!」

「オッサンは別に病人でもなんでもないだろ」

「そりゃそーだけどよ、普通こういう時は日頃お世話になってるお礼に〜とか言って、一緒に持ってくるもんだろーが!」

「ごめん、わざとじゃないんだよ。レオリオのこと、本当に忘れてただけなんだ」

「ゴン……それフォローになってねぇぞ……」

 

 崩れ落ちるレオリオは「オレの半分あげようか?」と気まずそうに申し出るゴンに、「あー、いいよもうお前らで食え食え」とぶつぶつ呟きながらキッチンへ向かう。

 

「にしても、成分表示まで確認して選ぶなんて、なかなか気が利くじゃねーかお前ら」

「ウイングさんに聞いたんだ。食事があまり摂れない人には、アイスとかプリンとか、柔かくてカロリーの高いものを渡したらいいって。そしたら少ない量で必要なエネルギーが摂れるでしょ? って」

「ウイング?」

「この前知り合った人。あ~、ハンター専用武術っていうか、技みたいなのを教えてる人。道場みたいのを経営しててさ、オレら最近そこ通ってんだ」

「へぇ。お前らも色々やってんだな」

 

 キルアの言うそれは〝念〟と呼ばれるもので、体内を巡る生命エネルギーである〝オーラ〟を自在に操る力のことだ。しかし非常に強力な力であり、悪用されることをさけるため、一般人にはその存在を漏らしてはいけないと口止めされていた。

 クラピカの件もあるが、レオリオはまだ只の民間人だ。いずれ話す時が来るだろうが、今はまだいいだろうとキルアは判断した。

 コンロの前に立ったレオリオは、カチッと火を調節する音を響かせて二人をを見た。

 

「よし、じゃあ二人に問題だ」

「??」

「アイスみたいに、食事が摂りにくい患者に向いてる料理は何だ? デザート以外でだ」

「え? うーん……スープ……とか?」

 

 自信なさそうなゴンの答えに、レオリオはにっと笑った。

 

「正解」

 

 火にかけていた鍋を持ち上げ、二人に中身を見せてみせる。

 

「これぞ、レオリオ様特製栄養スープだ!!」

 

 ぐつぐつと煮え立つ鍋を覗くとスープの良い匂いが立ち上り、二人は「おおっ」と感心した声を上げた。

 

「レオリオ、料理できるんだ!」

「当たり前だろ? これでもちゃんと一人暮らししてんだぜ?」

「でもこれ、具が殆どないじゃん」

「いやいや、この中には人参、じゃがいも、玉ねぎ、その他市場で安く買った大量の野菜を入れてあるんだ。見た目にはわかんねーが、すげぇ栄養が詰まってんだぜ」

「へー」

 

 鍋をコンロに戻し、スープを器によそったレオリオは、畳み掛けるような会話を黙って聞いていたクラピカに近寄る。手際良く周りを整えると、彼の手にお椀を乗せた。

 

「ほらよ、クラピカ」

 

 眩しいものを見るような目をして、クラピカが反射的にレオリオの顔を見上げる。

 レオリオは彼に微笑みかけた。 

 

 クラピカは、ゆっくりとお椀を傾ける。

 周りの三人は自然と、黙って見守る姿勢になる。

 溶けた野菜で少しとろみのついたスープは、喉に引っかかることなく、飲み込むことができた。

 

「……あったかい」

 

 囁くような声音で、クラピカは言った。

 

 傍で聞いていたゴンがぱっと顔を明るくする。

 

「味はどう? おいしい?」

 

 クラピカはこくりと頷いた。反応があったことに、レオリオもほっと胸を撫で下ろす。

 

「良かったね! おいしいってさ!!」

「だろぉ! ま、オレ様が作ったんだから当然だよなぁ」

「……調子良いやつ」

 

 嬉しそうな様子を隠そうともせず、得意げに胸を張ったレオリオに、キルアがぼそっと呟いた。だがその顔にも、小さな笑みがあった。

 

 

「……ずっと」

「ん?」

「ずっと、傍に付いててくれたのか?」

 

 空になった器を取りに来たレオリオに、クラピカはぽつりと訊ねた。

 久しぶりに視線が合う。澄んだ目で見上げられ、レオリオは少々照れながら答えた。

 

「……そりゃまぁな」

「…………」

 

 密かに目配せし合い、ゴンとキルアは二人を見守る。

 レオリオを見たまま、クラピカはそれ以上何も言わなかった。

 

 

 ……やがて、吐息まじりの息を吐くようにして。

 

 

 本当に小さくではあったが、クラピカは久しぶりに、微笑んだのだった。

 

 

 

第八話 終

 

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