Overflow 第九話

 

 

 

 淡い空の色が、日が経つごとに濃さを増していく。季節が移り変わっていく中、ゆっくりとクラピカは時を過ごしていく。

 傷は消えることはない。だが凍り付いた心がゆるやかに溶けていくように、クラピカは少しずつ、これまでのように皆と言葉を交わすようになっていた。

 彼が抱えた事情の根本的な解決には、未だ至ってはいない。しかし、時間は確かにクラピカの心を癒してくれていた。

 そんなクラピカを、予備校とバイトを両立させながらレオリオは面倒を見続けた。

 昼間はゴンとキルアに、夜は仕事帰りのセンリツにクラピカを頼み、忙しい日々を送っていた。

 

 昼時になると、ゴンとキルアは修行の合間を縫い、お菓子などのお土産を買って彼を訪問する。

 そして、クラピカにたくさんの話を聞かせた。今日二人が何をしていたか、ヨークシンの街の様子はどんなものか、どんな人達がいるか。

 二人が出会ったきっかけや、ハンター試験のことなどもクラピカに話していった。

 

「父親を探して?」

「うん。オレを育てくれたミトさんからは、ずっと『死んだ』って聞かされてたんだけど、八歳の時、カイトっていう人に会ってね。その人から『父さんは本当は生きていて、ハンターをしている』って教えてもらったんだ。名前はジン」

 

 カイトからジンがどんなハンターであるかを聞かされたゴンは、そこでハンターという職業を知り、父と同じ仕事をしてみたいと思い、ハンターを志したのだと言う。

 そしていつか、世界のどこかにいる父を見つけることが夢なのだと。

 

「ハンター試験には合格できたけど、ジンの手がかりはさっぱりでさ。試験で知り合った人に『ヨークシンでジンらしき人物を見た』っていう情報を聞いて、ヨークシン(ここ)に来たんだ。キルアはそれに付き合ってくれてるんだよ。オレはジンを、キルアはやりたいことを探す旅。今はまだ二つとも見つかってないけど、でもキルアと旅するのすっごく楽しいから、全然大変なんかじゃないんだよ。ね!」

 

 同意を求めるゴンに、キルアは「まあな」と恥ずかしそうに答えた。

 

「けど全然見つかんないんだよな、ゴンの親父。かなり有名なハンターみたいなのにな」

「ね。結局ヨークシンにもいないみたいだしね」

「……なら、近いうちにこの街を出るのか?」

「いつかはね。でもウイングさんの所で修行を始めたばかりだし、それにクラピカやレオリオとも、まだ一緒にいたいから。だから、もう暫くはここにいるつもり!」

 

 そう笑顔で言葉を結んだゴンは、クラピカに何気なく訊ねた。

 

「ねぇ、クラピカはどうして、外に出てみようと思ったの?」

「え……?」

 

 ゴンの問いは、湖面のようなクラピカの心に一つの波紋を落とした。

 

 

 

 

 日射しの色がゆっくりと変わっていく。赤みを帯びたオレンジの光が、クラピカのベッドを照らす。時々レオリオがノートのページを捲る音が、静かに室内に響く。

 夕焼けは、不思議と懐かしさを駆り立てる。胸が締め付けられるような、泣きたいような、そんな心地になる。

 クラピカの胸の内では、ゴンに聞かれた問いが、繰り返し渦巻いていた。

 

 

『ねぇ、クラピカはどうして、外に出てみようと思ったの?』

 

 

 クラピカは、クルタの森での日々を思い返していた。

 

 森に迷い込んだ旅人・シーラからもらった本を、パイロと共に読んでいた毎日。

 二人だけの秘密の隠れ家で、日が暮れるまで辞書を片手に物語を読みふけっていた日々。外への憧れを、語り合った時間。

 

 

 

 …………あの頃、私は世界を見たいと思っていた。

 

 

 そして今、夢見ていた外の世界にいる。

 

 

 けれど……

 

 

 

 その夢を分かち合いたい友は、もう、いない。

 

 

 

 皆、あんなひどい目に遭わされて、死んでしまったのに

 

 

 

 自分だけ、生きていていいのだろうか。

 

 

 

「私は……生きていてもいいのだろうか」

 

 

 真っ赤な夕日を眼に映しながら、クラピカは呟いた。

 誰に尋ねるわけでもなく、幾度となく心に浮かんでいた問いを、ただ口にした。

 視線の先で、太陽が夕空に溶けていく。

 

 

「……死にたいなんて言うなよ」

 

 

 独り言のつもりだった呟きに言葉が返ってきて、クラピカは部屋の中にいるレオリオを見た。

 机に向かっていたレオリオは、何とも言えぬ表情をしていた。

 

 

「医者志望のオレの前で、死にたいなんて、言うなよ」

 

 

 レオリオの顔に刻まれた、深い陰。怒りと哀しみの混じった表情が、ぎりっと手に力を込めるのが見え、クラピカの眼差しは揺れる。

 

 

「オレはもう、ダチが死ぬとこなんざ見たくねぇんだ」

 

 

 その言葉に、クラピカは無意識に身体を震わせる。

 一瞬のうちに、沢山の想いが湧き上がった。

 

 

「だから……」

「レオリオ」

 

 レオリオの言葉を、クラピカは遮った。

 

 

 

「私は……ここにいても、いいんだろうか」

 

 

 

 彼の顔を見れないまま、クラピカは訊ねた。

 厳しい顔付きをしたレオリオは、立ち上がるとクラピカのベッドまで来る。

 そして膝の上にあるクラピカの手を、両手でしっかりと握り込んだ。

 

 

「……そんなの、当たり前だろーが」

 

 

 クラピカは俯いたまま目を見開く。

 レオリオの掌が重なった手を、我を忘れたように見つめた。

 

 

「——クラピカ?」

 

 

 レオリオは驚きの声を漏らす。

 

 

 クラピカは泣いていた。ぎゅっと固く瞼を閉じて、目の端から涙を零していた。

 しかしこれまでの空白の日々とは違い、くしゃくしゃに歪んだ表情からは感情が溢れ出ていた。抜け殻のように、ただ流す涙ではなかった。

 それに気付き、レオリオの表情から怪訝な色が消える。

 

 

「……お前はさ、生きなきゃダメだよ。クラピカ」

 

 

 やさしく微笑むと、レオリオは右手でクラピカの手を握ったまま、左手でクラピカの髪を撫でて言う。

 

 

「オレがお前の親父やお袋さんだったら、お前には絶対生きていて欲しいと思うぞ」

 

 

 しゃくり上げるクラピカの頭を、レオリオはさらに撫でてやる。指で梳いた金髪が、夕日に柔らかく煌めいた。

 レオリオの手を享受するように、クラピカは泣きながらじっとしていた。

 

 

「それに、オレもゴンもキルアも、お前にここにいてほしいって思ってるんだぜ」

 

 

 レオリオの言葉の一つ一つが、クラピカの中に沁みていく。

 空っぽだった心が、あたたかいもので満たされていく。

 

 

 涙を拭おうと、レオリオの指がクラピカの頬に触れる。

 その手にクラピカは指を伸ばすと、自分の手を重ね、頬にレオリオの掌を押し当てた。

 少しかさついた無骨な掌を、緋色の涙が滑る。

 

 瞼を開いたクラピカはレオリオを見つめて、涙に濡れた緋色の瞳で、微かに微笑んだ。

 

 

 

 

 …………もしかしたら。

 

 

 皆が死んだと聞いた時から、オレはずっと死にたかったのかもしれない。

 

 

 

 でも、自分が生きることを、赦してくれる人がいる。

 

 自分が生きることを、望んでくれる人がいる。

 

 

 それだけで。

 

 

 

 きっと、生きていける。

 

 

 

 

 

 翌朝、クラピカが少し腫れぼったい瞼を開けると、既に部屋は明るくなっていた。

 窓のカーテンは開け放され、燦々と朝日が差し込んでいる。

 

「おはよう、クラピカ」

「……おはよう……レオリオ、バイトは?」

「今日は休みだよ」

 

 休みと言いながら、レオリオはいつものワイシャツでなくラフな格好に上着を羽織っていた。

 更にクラピカに着替えだと言って服を渡し、手際良く着替えさせる。春らしい明るい色合いのシャツにクラピカは袖を通す。

 大きめの鞄に色々と詰めて、レオリオは何やら準備をしている。不思議に思っていると、玄関の方から物音がした。

 

「レオリオ、準備できたよ!」

「おう! これ頼む!」

「うん!」

 

 ドアが開いてゴンが顔を出したかと思うと、レオリオは玄関に走り鞄を彼に手渡す。

 

「よし、出かけるぞ、クラピカ!」

「え?」

 

 ベッドまで近付いたレオリオは、クラピカの肩と膝の下に腕を入れ、

 

「……わっ!」

 

 勢いよく抱き上げた。

 

「おっと、暴れんなよ? んな構えなくても大丈夫だって」

「……どこかへ行くのか?」

「そうさ。皆で出かけるんだ」

 

 クラピカを抱え、レオリオは玄関を跨ぎ部屋を出る。荷物を預かったゴンが部屋の鍵をかけた。

 鉄製の手すりでできたアパートの階段を、カンカンと足音を立てながらレオリオは危なげなく降りていく。階段下にいたキルアが軽く手を挙げた。

 その前には、どこから持ってきたのか車椅子が用意されていた。

 クッションの置かれたそれに、クラピカはそっと下ろされる。

 

「みんな準備完了だね!」

「よし。それじゃあ出発するか!」

「おう! ……って、どこ行くの?」

「デイロード公園はどうだ? 広いし、段差も少ねぇしな」

「あ、いいね!」

「賛成」

「決まりだな。クラピカ、いいか? 押すぞ」

 

 声がかけられたかと思うと、クラピカの乗る車椅子が加速し始める。

 レオリオのアパートのある小さな通りから、街の中心に向かって、四人は進んでいく。

 

「ねぇねぇ、これ中身何入ってんの? お菓子?」

「着いてからのお楽しみ」

「えへへ。何だかピクニックみたいだね!」

 

 傍では絶えず三人の会話が響いている。道路の街路樹が、頭上から緑と太陽の光を投げかけていた。

 タイヤの振動に身を預けながら、光に誘われるようにクラピカは顔を上げる。

 クラピカの前に、いくつもの景色が広がっていく。

 

 

 

 そうだ。私は。

 

 

 

 こんなにもあたたかな世界を、知りたかったんだ。

 

 

 

 信号の色が変わり、じゃれ合うゴンとキルアが走り出す。その後を、レオリオはクラピカの車椅子を押しながら追った。

 

 

 ふとレオリオが目を遣ると、車椅子の上のクラピカは、

 

 

 光の中で、確かに、幸せそうに見えた。

 

 

 

 

第九話 終

 

→ 第十話(最終話)