トゥモローズ・マイルストーン2

 

 

 

 微かな物音が室内を満たす。

 眩しい光が、クラピカの瞼を通して降り注いでくる。

 

「ん……」

 

 自分の声で、クラピカは目を覚ました。

 何だかとてもぐっすりと寝た気がするなと思った。布団の上で伸びをする。

 

「お、起きたか。おはよう」

 

 少し離れた所から声が聞こえてきて、クラピカはそちらの方を見る。レオリオもまだ寝間着姿であったが、キッチンで朝食の準備をしていた。

 

「……起こしてくれても良かったのに」

「特に早起きしなきゃけいけない理由もないだろ。お前低血圧だし。それよりよく眠れたか?」

「あ、ああ」

「そりゃ良かった」

 

 何気ないがあたたかみのある言葉に、クラピカは少し照れ臭いような気持ちになった。立ち上がりながら、ふと忘れていた、と思い至り、彼に呼びかける。

 

「レオリオ。……おはよう」

「あ?  ……おう、おはよう」

 

 クラピカはベランダまで行きカーテンを引いた。雲が少し空に残っていた昨日に比べ、雲一つない快晴だった。

 キッチンへ向かう。

 

「何か手伝うか?」

「じゃあ食器並べてくれ」

「わかった」

 

 昨晩も使った戸棚から二枚、皿を出しテーブルに並べる。カップも二つ取り出す。

 トースターの鳴る軽快な音が響く。

 朝食のメニューは焼いたパンとベーコン、それと目玉焼き。

 

「いただきます」「いただきます」

「……美味い?」

「ああ」

 

 湯気の出る朝食。誰かがいる食卓。

 平凡な、けれどどこか胸がくすぐったくなるような景色。

 何となく、クラピカは微笑みながらトーストを口に運ぶ。

 

「昨日も思ったが」

「ん?」

「君は料理が上手なのだな」

 

 目玉焼きを半分くわえた間抜け顔でいたレオリオは、素直な褒め言葉に内心面食らう。固まった後、一気にごくんとおかずを飲み込む。

 

「だろー? こう見えてもオレ、結構家庭的だぜ」

 

 得意げなレオリオにふふっ、と相槌を打つクラピカの表情は柔らかい。昨晩に比べ、随分リラックスしているようだ。

 調子づき、レオリオは話を続ける。

 

「お互いスシの時はひどかったよなぁ。ま、あれから少しは自炊するようになったから、大分成長したけどな」

「スシ?」

「ハンター試験の二次試験の課題で出された料理でな。確かどっかの国の伝統料理……とかだっけかな」

「スシ……酢を混ぜた米に、魚を乗せる……という奴か?」

「そうだそれ! なんだ、やっぱりお前覚えてるじゃねーか」

 

 やはりクラピカの記憶は、完全には失われていないのだ。再認識して、レオリオは何だか嬉しくなる。

 

「……でも私は、それを覚えていない」

「なに、少しずつでもきっと思い出せるさ。焦る必要なんてねぇよ」

「……うん」

 

 昨晩と似たような言葉だったが、クラピカは朗らかに笑った。

 朝食を終え、二人は身支度をして出かけた。レオリオはいつものスーツ(勿論ネクタイと香水は変えている)、クラピカの服装は、昨日に引き続きスカート状の民族服だ。

 荷物を持って歩き回るのは大変なので、先に二人は海に向かうことにした。一時間ほど歩き、海岸に着いた。

 

「気持ち良いな」

 

 海風に遊ばれる金髪をクラピカは押さえた。

 海べりの白い家々を、面白そうに眺める。

 沖ではヨットやボートが行き交う。遠くの方では、大きな船も出ていた。

 

「あの船はどこへ行くのだろうな」

「ここからだと、ヨルビアン大陸の西側だな」

 

 そういえば、クラピカと初めて会ったのは海の上だった。

 ハンター試験を受けるために、くじら島からドーレ港に向かう船に乗り合わせた日のことを、レオリオは鮮明に憶えている。

 あの時決闘までした相手が、今は自分の故郷に来ているとは。

 不思議な縁だな、と思うレオリオの目線の先で、クラピカは風に服を踊らせていた。

 真っ青な空と海を映したようなブルーの服を纏った金色の髪が、太陽に照らされて光るのが、やけに眩しかった。

 

 

 

 海岸を散策した後、二人は市場に向かった。

 朝の混雑の時間は過ぎ去ったが、観光客も訪れるエリアであることもあり、まだまだ人は多い。

 

「……混んでいるな」

「あ、もしかして人込みイヤだったか?」

「いや、活気のある場所は嫌いじゃない」

 

 そう返し、クラピカは興味深そうに店を覗いている。意外な気がして、レオリオはクラピカの横顔をまじまじと眺めた。

 だがすぐに納得した。冷静沈着な態度が目立つが、彼は生来、好奇心旺盛な性格だ。試験中やパドキア共和国へ訪れた時も、その片鱗はあった。

 こういった異国の街の賑わいも、きっとクラピカの目には魅力的に映るのだろう。

 記憶を失って、初めて見えた彼の一面。本来なら、クラピカはもっと明るい性格だったのかもしれない。クルタ族が襲われなかったら、同じような年頃の友人と旅に出るという未来もあったかのもしれない。

 ……もしそうだったとしたら、自分達とは出逢っていただろうか。

 

「やはり海が近いから、魚介類が多いな」

「この辺はな。向こうの通りに出ると、鞄や靴とかを扱ってる露天があるんだ」

「そこも気になるな」

「じゃあ後で寄ろうぜ」

 

 どちらにしても、今楽しそうなクラピカが見られれば、それでいいやと、レオリオは思った。

 

 

「5150!! これでどうだ!!」

「5500!! これ以上は譲れねぇ!!」

 

 露天が立ち並ぶ通りのある店先で、レオリオと店主が睨み合う。先程から数分間、同じ調子だった。

 

「おいレオリオ…もうやめてはどうだ……?」

「何言ってんだ。こういうトコではな、値切るのが常識なんだよ。そのままポンと金を出すのは、バカのすることだぜ」

 

 見かねて口を挟んだクラピカだったが、間髪入れずに返される。

 レオリオも店主も、お互い一歩も譲らぬ構えだ。店の奥では、店主の妻であろう女性が苦笑している。

 ふと主人は、レオリオの隣に立つクラピカをちらっと見る。困り顔のクラピカと目が合うと、同情か諦めか。彼は溜め息をつきながら言った。

 

「……わかったよ、今回は隣の子に免じてまけてやらぁ!」

「よっしゃあ!! ありがとよおっちゃん!!」

 

 高らかに響いた勝利宣言に、オーディエンスと化していた周りの客がどよめく。中には拍手をする者までいる。

 

「こんなにねぎられたのも久しぶりだよ。まったく、兄ちゃん肝が据わり過ぎだぜ」

「へへっ。まぁな」

 

 女将が品を詰めた袋を差し出す。

 

「はいよ。美人さんだねぇ。その子、あんたの彼女かい?」

「え?」

 

 クラピカがきょとんとする。レオリオは慌てて言った。

 

「ば、ち、ちげぇよ!」

「ははは! いやぁ、お熱いねぇ。やけちまうぜ」

「ちがうっつーの!! ほい、5150ジェニー!!」

「まいどあり!!」

 

 恥ずかしさも相まり、代金を支払ったレオリオはずんずんと歩き出す。付いてきたクラピカが聞いた。

 

「……私が彼女では不満か?」

「……へ?」

「冗談だ」

 

 思考の停止したレオリオに、クラピカはくすっと笑った。そして軽い足取りで先へと行ってしまう。

 

(……何だよ今の)

 

 不意打ちのような言葉に、不覚にもレオリオの胸は高鳴っていた。

 

 

 時季は秋も深まっていたが、晴れていることもあって割と暖かい。買い物を終えた後、レオリオの提案で二人はジェラートを買った。

 店の近くに設置されたベンチに腰掛け、買い物袋を置く。会計を済ませたレオリオが、カップに入ったジェラートを手渡す。

 

「ほらよ」

「ありがとう」

 

 スプーンで掬い、ジェラートを口に含んだクラピカの目が丸くなる。

 

「……美味しい!」

「だろぉ? この国にはジェラート屋は沢山あるが、ここはオレのオススメだ。何て言ったって安いし美味い!」

「またそれか……。でも本当に美味しい」

 

 呆れつつも、クラピカは口元を綻ばせる。その様子は幸せそうで、レオリオも満足げにジェラートを口に運んだ。

 その後も色んな場所に寄り道をしながら、二人は一日を過ごした。

 クラピカは終始楽しそうだった。そんなクラピカを見てレオリオもまた楽しい気持ちが絶えなかった。

 

「今日はありがとう」

 

 夕暮れに染まった帰り道を辿りながら、クラピカはレオリオに言った。

 

「すごく楽しかった。こんなに楽しい気分になれたのは、初めてのような気がするよ」

 

 クラピカがしていたのは、マフィアのボディガードだ。裏社会という独特の世界で、常に雇い主の気を使わなければならない仕事であるから、これまで息抜き自体、あまり出来なかったのかもしれない。

 そうレオリオが話すとクラピカは「それもあるかもしれないが ……」と言い、少し考えて

 

「君といるからかもしれない」

 

 と続けた。屈託なく微笑むクラピカに、レオリオの顔が熱くなる。

 

「な、何だよ。いきなり変なこと言いやがって。恥ずかしくなるじゃねーか」

 

 狼狽えるレオリオに、クラピカは笑い声を上げた。

 まるで普通の少年のように。

 

 

 

 

 翌日、レオリオはまたクラピカと共に出かけた。

 向かったのは昨日とは別の地区。石畳と古い街並みが残るブロックだ。

 レオリオは彼を古本屋へ案内した。店内に入り、上から下まで本が詰まった棚を見た途端、クラピカの目が輝き出したのがわかった。

 かなり長い時間物色したのち、二人はこれまたレオリオのお気に入りの喫茶店に行く。

 買った本を、クラピカは嬉しそうに広げる。

 

「ヘー、意外。おまえ冒険物とか好きなのか」

「ああ。こういうのは何歳(いくつ)になっても、わくわくするではないか」

「お前まだ十代だろーが……」

 

 ランチを食べた後、購入した本を読みふける彼を、レオリオはただ見守る。注文したコーヒーを飲み干しても、本から目を離そうとしない彼に微笑ましい気持ちになりながら、レオリオはお代わりを頼むのだった。

 

 結局クラピカが満足するまで喫茶店にいたため、夕食も外で食べて二人は帰宅した。

 

「明日はどっか行きたい所あるか?」

 

 風呂上がりの髪をタオルで拭きつつ、レオリオは昨日と同じ質問をした。

 

「……何か、出かけなければならない用事があるのか?」

「いや、特にないけど」

 

 レオリオの返事に、机で本を読んでいたクラピカはどこか神妙な顔付きになる。レオリオが不思議に思っていると、クラピカは本を閉じ、姿勢を正して切り出した。

 

「……レオリオ」

「何だ?」

「あまり私に気を使わないでくれ」

 

 クラピカの発言に、レオリオは手を止める。

 

「私のことを考えてくれているのは有り難い。しかし君には君の生活があるのだろう。明日からはこれまで通り過ごしていてくれていい」

 

 レオリオはぱちぱちと、サングラスを外した目を瞬かせる。

 

「まだ記憶は思い出せないとはいえ、何も出来ない子どもではないんだ。一人で時間を使うことぐらいできる」

 

 タオルを首にかけたまま、黙っているレオリオをどう思ったのか、クラピカは言葉を足してきた。

 

「……機嫌を悪くさせていたらすまない。けど何と言うか……私に付き合うことで、君が君の時間を使えてないのではないのかと……そう思ってしまって…」

 

 最初の勢いから一変し、申し訳なさそうな様子で考えながら言葉を続けるクラピカに、こらえきれずレオリオは笑いを漏らす。

 それに気付いたクラピカは、不審そうな表情になる。

 

 

「……何故笑うんだ?」

「いや、お前やっぱり変わらねぇな」

 

 

 理性的な物言いで、冷たい人間だと誤解されやすいが、本当は他者への思いやりに満ちている。

 けれどそういった態度を、表にはあまり出そうとはしない。

 指摘されても否定する、天の邪鬼な奴。それがクラピカ。

 

 

「それじゃお言葉に甘えて、明日は一日家で過ごすとするぜ。勉強もしなくちゃいけねぇしな」

「勉強?」

「ああ。こう見えてもオレ、受験生なんだよ」

「……そうだったのか?」

「そうさ。あ! どう思ってるか知らねーけど、オレまだ十九だからな!! お前と年二つしか違わないから!!」

「別に老けているなどとは、一言も言ってないが……」

「言ってるじゃねぇか」

 

 すかさず突っ込むレオリオをスルーして、クラピカは「何の勉強をしているんだ?」と聞いてきた。

 そうか、それも忘れちまったんだなと思いながらレオリオは答えた。

 

「医大だよ。オレ、医者になるのが夢なんだ」

 

 

 トクン。クラピカの中で、何かが音を立てる。

 何か、とても大事な言葉を聞いたような、そんな気がした。

 

 

「……どうした?」

「……いや」

「もしかして、似合わねーとか思ってんな? わかってるぜ、自分でもそう思うし」

 

 大袈裟に肩を竦めてみせるレオリオに対し、クラピカはすぐに返した。

 

「いや、君ならきっと良い医者になるだろう。……なれるといいな」

 

 その台詞に、レオリオは密かに刮目した。

 それはかつて、彼がクラピカに言われた言葉だった。

 ハンター試験の時、マラソンをしながらの何気ない一言。曇りない、澄んだ瞳で言われた言葉。

 あの時の言葉と感情は、今でもレオリオの中で息づいている。

 

 

「……サンキュ」

 

 

 二つの意味を込めて、レオリオは彼に礼を言った。

 

 

 

 それから数日が過ぎた。

 クラピカはレオリオの邪魔をしないような過ごし方を意識しているらしく、昼間は教えた本屋や露天に足を運んでいるようだ。家にいる時は、レオリオと他愛のない話をしたり、静かに読書している。

 レオリオは本来の身分である受験生として、勉強に精を出した。時々自分の息抜きも兼ね、クラピカを外に連れ出してやる。

 時には徒歩で、時には電車に乗って。お気に入りの場所から、レオリオも行ったことの無い場所へ。

 そんな日々を繰り返し、気が付けば五日が過ぎていた。

 

 

 

 

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