トゥモローズ・マイルストーン3

 

 

 

 ある日のこと。クラピカは本屋から帰宅した。

 レオリオはいなかった。買い物か何かだろう。そう頻繁に買い物に行く理由もないだろうに、ショッピングが趣味らしく(いわく、お洒落には流行を知る必要があるんだとか)、息抜きと称して、レオリオは度々勉強の合間に出かけていた。

 クラピカはしばらく、一人で読書を楽しんだ。キリの良いところで栞を挟み、レオリオの本棚の前に立つ。

 本棚は滞在中、好きに読んだり使っていいと言われていた。クラピカはなるべく使われていなさそうな段に、自分の買った本をしまう。

 医者志望らしく、レオリオの持ち物はやはり医学書が多い。下の方を覗いていると、無地のカバーがかかっている本を数冊見つけた。何の本だろうと、何と無しに外してみる。

 いかがわしいタイトルだった。

 

「……」

 

 中身まで確認する気にはなれなかった。クラピカはカバーをかけ、元に戻した。どうやらここは隠し場所のゾーンらしい。心無しか力を込めて、クラピカは本を棚に押し込む。

 すると勢いで本棚が少し揺れ、上にあった本が一冊落ちてしまった。落ちた拍子にページが開く。

 医学生向けの解剖学の本だ。図が多めで、素人にも解りやすく解説されている。こちらは真面目な内容のようだなと思いながら、ぱらぱらとページに目を通す。

 

「ん?」

 

 ある所まで来て、クラピカは呟いた。眼科の単元に、やたら書き込みがある。

 重要語句がマーカーで引かれており、観察すべき点の横に手書きで注釈まで書き添えられている。レオリオの字だ。

 その力の入れ具合を些か奇妙に思ったが、特に気には留めず、クラピカはそれを棚に戻した。

 

 

 

 

 クラピカの記憶が戻る様子は、依然としてない。

 最初は急がなくても、自然と思い出すのを待てば良いと楽観的に考えていたレオリオだったが、時間が経つにつれ、クラピカの笑顔を見る度にある思いがよぎる。

 このままで良いのだろうか、と。

 

 今日はクラピカは公園に出かけたらしい。窓から外を窺うが、まだ戻ってくる気配は無かった。

 レオリオは机の引き出しを開ける。二つあるうちの右側には、センリツから預かったクラピカのイヤリングを納めた箱が入っている。

 レオリオは箱を開け、イヤリングを掌に転がした。

 初めて出逢った時から、クラピカの耳で揺れていたそれ。

 クルタ族にまつわる品だろうか。裏社会に属しても、外すことはなかった物。

 身を飾ることにあまり興味がある奴ではないから、何か大事なものなのだろう。もしかしたら、家族の形見などかもしれない。

 レオリオはイヤリングを通して、クラピカに問いかける。

 

(なぁ……お前、何で忘れちまったんだ?)

 

 クラピカとの日常を楽しみつつも、変わらない現状にレオリオは焦りを覚え始めていた。

 ここでの生活の目的は、クラピカにゆっくりと過ごしてもらうことだ。一般的に記憶喪失の患者の治療には、患者がリラックスできる状況が望まれる。その点で言えば、目的は達せられていると言える。

 しかしこのままクラピカの記憶が戻らなかったら、自分には一体何が出来るのだろうか。

 

 ……そもそも今まで、自分には「何か」出来ていたのだろうか。

 

 あんな風に穏やかに笑うクラピカを、レオリオはこの日々で初めて見た気がする。

 試験の時もヨークシンで再会した時も。クラピカは為すべき目的のために必死だった。軽口を叩き合ったりふざけ合ったりすることはあったものの、彼の後ろには常に影があった。

 しかし今は何の気兼ねもなく、無邪気に笑っている。

 街を散策して、好きな本を読んで。穏やかに過ごしているのを見ると、いっそ忘れたままの方が幸せなのではないかと思ってしまう。

 

 

 本当は、忘れてしまいたいんじゃないのか。

 オレは結局、何も出来ていないんじゃないのか。

 

 

 堂々巡りになった思考を持て余し、レオリオは携帯を取り出した。履歴の一つから、目的の人物へと発信する。

 コール音が暫く響いた後、電話は繋がった。

 

 

『……どうしたの?』 

「悪ィ、今大丈夫か?」

『私は平気だけど……クラピカに何かあったの?』

「いや、何かあったって訳じゃねーんだが……ちょっとな」

 

 レオリオはセンリツに今の状況を話した。レオリオの主観が入り、やや長い話だったが、センリツは黙って耳を傾けてくれた。

 

「休暇で申請した期間は、二週間だっけ」

『ええ。ボスもそれくらいなら良いと言ってくれて』

 

 いつもは我が侭なネオンだが、目の前でクラピカが負傷するのを見たこともあり、今回の件には協力的だったという。

 

「ゴンとキルアに連絡が取れない以上、アイツの知り合いがオレしかいないのはわかってる。けど、オレにはちょっと荷が勝ちすぎるんじゃねぇか?」

『いいえ、そんなこと無い。それに二人と連絡が取れてたとしても、私は貴方にクラピカを任せるつもりだったわ』

「……何でだよ」

『クラピカが記憶をなくしてるとわかった後、携帯を一緒に確認したの。アドレスとかを一通り確かめても、彼は何も思い出せなかった。そのあと私は部屋を出たんだけれど、そしたらあの人、何をしていたと思う?』

「……何だ?」

『貴方の留守電を聞いていたのよ、繰り返し』

 

 

 宛てがわれた部屋で、誰もいない時。

 携帯に録音された留守電が再生されるのを、センリツの耳は捉えていたという。

 それは全てヨークシンで別れてから、度々連絡をいれていたレオリオのものだった。

 

 

『その時のクラピカの心音、これまで聞いたことないくらい落ち着いていて……記憶を無くしても、覚えていることがあるんだな、って思ったの』

 

 

 だからレオリオに頼むことにしたのだと、センリツは言った。

 

 

「……買い被りすぎだ」

 

 

 電話を終えたレオリオは、イヤリングを見つめながらぽつりと呟いた。ひび割れた石の輝きは、悲しいほど澄んでいた。

 

 

 

 それから二日経ち、クラピカがレオリオの元に来てから一週間が過ぎた。しかし彼の状態は変わらなかった。

 記憶を話すべきか、話さずにいるか。レオリオはジレンマを抱えつつも、クラピカと毎日を過ごしていた。

 そして、ある日の午後。

 

 

 

「おっちゃん、これいくらだ」

「一個2000ジェニーだよ」

「ええ? ちょっと高ぇな。500ジェニーでどうだ」

「おいおい、そりゃ無茶ってもんだよ」

 

 とある店で、またレオリオがねぎり始めた。

 さすがにもう慣れたが、恥ずかしいような気になるのは変わらない。クラピカは苦笑しながら、交渉のなりゆきを見守る。

 と、視界の端に動く影がある、何だろうと視線を向けると、壁を這う生き物が目に入る。

 刹那、クラピカの世界の色が変わった。

 

 

 ドンッと、何かがぶつかったような音がした。

 誰かがキャッ! と小さな悲鳴を上げる。何だ? とレオリオは音のした方、すぐ横へと目を向ける。

 

「クラピカ?」

 

 隣にいたはずのクラピカが、店の壁に拳を打ち付けていたのだ。

 

「ビックリしたなぁ、何だクモか。お客さん危ないじゃないか」

 

 『蜘蛛』という単語に目を剥き、レオリオは壁を見遣る。五センチ程度の大きさの蜘蛛が、クラピカの手によって潰されていた。

 クラピカは肩で大きく息を吐いている。指からは蜘蛛の体液が垂れていた。

 慌てて顔を覗くと、クラピカの眼が真っ赤に染まっていた。

 

「悪ぃおっちゃん! これまた今度でいいわ!」

「え? おい、ちょっと兄ちゃん!」

 

 息を飲んだレオリオは、値切りしていた品をその場に置くと、クラピカの手を引いて走り出す。

 周囲の視線が集まる。レオリオはクラピカの手を握ったまま、ひたすら走り続けた。

 裏道に入って数ブロック走り、息が切れてきた所で二人は止まった。ここまで来れば人目につかないだろう。

 レオリオはクラピカの手を離し、彼の肩を掴んで揺すった。

 

「おいクラピカ!! 大丈夫か!?」

 

 返事は無い。クラピカの瞳は緋の眼のままだ。

 

「クラピカ!! しっかりしろ!!」

 

 何回か揺すると、クラピカの首が揺れて表情が覗けた。

 それを見て、レオリオは揺するのをやめた。

 レオリオが引いたのとは反対の手を、蜘蛛の体液で濡れた己の手の平を、クラピカは呆然と見ていた。

 

「……何故、こんなことをしてしまったんだろう……」

「……覚えてねぇのか?」

 

 レオリオの問いに、クラピカは首肯する。自分で自分のしたことに、理解が追い付いてない様子だった。

 

「何かを見たのは覚えている。でもその後、気付けば壁の前に立っていて……」

 

 無意識だったのだと言う反応に、、レオリオはクラピカの傷の深さを改めて知る。

 記憶は失っているのに、自覚なしに緋の眼になってしまうほど、クラピカの中には蜘蛛に対する感情が刻まれているのだ。

 まるで、呪いのように。

 

「何故こんな……」

 

 手に残った蜘蛛の肉片を見て、クラピカは呟いた。

 

 

「殺したくなんてなかったのに」

 

 

 クラピカの言葉が、レオリオの胸に突き刺さった。

 

 

 

 

 そうだ。本当は。

 本当は、クラピカは人殺しなどしたくないはずなのだ。

 

 トリックタワーで『殺しを怖い、怖くないで考えたことはない』と言いつつも、囚人にとどめを刺すことを頑に拒否した態度。

 もう死んでるのでないか、というキルアの指摘に、不安気に揺れた瞳。その中には、相手を殺してしまったかという恐れがあった。

 ヨークシンでも、蜘蛛の団長を目の前にしながら、クラピカはゴンとキルアを切り捨てることはしなかった。

 気が触れてしまいそうな憎しみを抱えながら、それでも、クラピカは仲間への情を優先させた。悲願を目の前にしながら、怒りのまま仇を殺すことはしなかった。そういう奴なのだ。

 

 そんなクラピカが、いくら仇とはいえ、人を殺めて平気であるはずがない。

 殺された同胞の無念を晴らすため、相手をまた殺すという矛盾を抱えて、クラピカの心は血を流し続けている。

 本人が自覚していない間も、ずっと。

 

 

「……私はどこか、おかしいのか?」 

 

 

 己の行動に困惑するクラピカは、瞳を緋色に染めたまま、強張った表情で自分の掌を見ていた。

 その光景に、人質交換を終えた後の、飛行船での憔悴した姿が重なった。

 そして、スローモーションで倒れていく身体。

 

 

 ……記憶の中の彼を受け止める様に、レオリオはクラピカの身体を抱き締めた。

 クラピカが息を詰めた。だが、抵抗はなかった。

 

「大丈夫だ。……おかしくなんかねぇよ」

 

 安心させるように、低い声で囁く。

 やがて、張り詰めていた体から力が消え、ゆっくりと柔らかくなる。

 

 

「……落ち着いたか?」

 

 

 なるべく刺激しないように聞く。クラピカが頷く仕草を見せる。

 背中に回していた腕を外し、顔を覗き込むと、瞳は元の青色に戻っていた。

 クラピカはまだ、自分の変化に戸惑っているようだった。しかしレオリオはこれ以上考えさせたくはなかった。

 

「帰るか。な?」 

 

 小さな手を取り繋ぐ。表通りまで戻り、帰路を辿る。

 クラピカはレオリオに引かれるまま、彼の手をぎゅっと握っていた。

 

 

 

 

第四話