トゥモローズ・マイルストーン4

 

 

 

 覚えている。

 掴んだ手の中で、怒りに震える指を。 

 荒く息を吐いて、憎しみに燃えた赤い瞳を。

 

 

 クラピカが一人で生きて来た時間を、レオリオは知らない。

 どのような決意と覚悟があったのか、想像することしか出来ない。

 しかしそれを知らなくても、やれることはある。

 クラピカが記憶を取り戻すまで、組(ファミリー)から与えられた時間はあと一週間。

 だがリミットなど知ったことか。もし思い出さないままだとしたら、その時はセンリツに連絡して上にかけ合ってみせる。何だったら、クラピカをマフィアから抜けさせることぐらいしてみせる。

 自分だって一端のハンターなのだ。クラピカが普通の日々を過ごしている間、緋の眼の情報が出回っていないか調べることくらいはできる。

 

 

 ……それに本当のクラピカは、記憶を忘れたままであることを望むはずがない。

 遅かれ早かれ、クラピカはいつか、全てを思い出してしまうだろう。

 だからそれまで、彼が束の間の平穏を不安なく過ごせるよう。

 そして思い出した後は、背負った重荷に倒れてしまわぬよう。

 支えてやりたいと、守ってやりたいと、レオリオは強くそう思った。

 

 

 

 

 次の日の天気は、曇り空だった。レオリオは用があるとのことで、朝から留守にしている。先日買った本を読み終え、クラピカはそれを棚に戻した。

 特にすることが思い付かず、クラピカは部屋を見渡した。大ざっぱな印象があるレオリオだが、意外にも部屋は綺麗にしていた。

 しかし今日は珍しく、いつも整頓されている机に何やら色々出しっ放しだ。

 これぐらいなら自分が戻しておこうと、クラピカはレオリオの勉強机に向かった。

 椅子を引いて、引き出しを開けて適当な場所にしまっていく。

 

「ん?」

 

 文房具が詰まった引き出しの中に、小さな箱があった。

 勝手に見てはいけないとも思ったが、なぜだか惹かれるように、クラピカはそれを手に取った。

 箱を開く。その中身を見た瞬間、クラピカの眼は見開かれていた。

 紫色の石が付いた、一対のイヤリング。

 

「……っ!!」

 

 途端に、頭が激しく痛んだ。クラピカは咄嗟に額に手を当て膝をついた。

 拍子に箱が手から滑り落ち、イヤリングが床に散らばる。

 痛みを堪えながら瞼をうっすら開けると、真っ赤になった視界にイヤリングが映る。

 その場景に、頭痛が更に酷くなる。自分の吐く忙しない息が、聴覚の全てを占める。

 

「あ……あ……!!」

 

 フラッシュバックしていく景色に、クラピカは声を上げることしかできなかった。

 映画のフィルムを巻き戻すように、記憶は再生されていく。

 忘れてしまいたかった、残酷な光景までも。

 

 

 

 

 

 思い出した。

 あの日、敵対する別の組から襲撃を受けたことも。

 ボスを庇って頭に攻撃を受け、気を失ってしまったことも。

 

 

 己がハンターを目指した理由も、復讐の為に生きていることも。

 

 

 何故忘れていたのだろう。

 こんなにも大事なことを。

 

 

 ……何故、忘れていられたのだ。

 

 

 虚ろな同胞の躯を。無念だと語る瞳を。

 

 

 

 ………パイロのことを。

 

 

 

 

 ぎりっと唇を噛み、クラピカは叫び出したいような気持ちに襲われた。

 イヤリングを拾い上げ、クラピカはそのまま、部屋を飛び出した。

 

 

 

 

 服装を変えて電車に乗ったクラピカは、離れた街で降りネットカフェに入った。カードを使い、ハンターサイトにアクセスする。

 しばらく探したが、緋の眼に関する新しい情報は出回っていなかった。ノストラード組のページもめくったが、これといった情報は更新されていなかった。

 クラピカが負傷したという情報もなかった。センリツ達が上手く組を機能させているということだろう。

 情報に触れていない期間が長かったため、ブランクを恐れていたが、特に変化のない情勢に安堵する。

 だが同時に、いつも感じていた焦燥感がクラピカの中に涌き上がってくる。

 安穏と過ごして来た時間が、己への苛立ちとなって胸を苛んだ。

 持ち出してきたイヤリングを握り込む。

 

 

 ……私の生きる目的はこれなのに、何故忘れていられたんだろう。

 

 

 

 その後一日情報収集に励んだが、望む情報は得られなかった。

 空しさを抱えたまま、クラピカはレオリオの自宅がある街まで戻ってくる。

 駅のロッカーに預けていた服を取り出し、トイレで着替える。変装用の服は、持って帰る訳にもいかなかったのでゴミ箱に捨てた。

 熱くなった頭を冷ますように、雨が降っていた。売店では傘も売っていたが、クラピカは見向きもせず、駅からの道を歩く。

 時刻が遅いことに加え、雨の所為で辺りは更に暗かった。濡れた服が纏わりついて、足が重い。

 

 ふと、クラピカは足を止めた。勝手に飛び出して来たというのに、あの家に帰って良いのだろうか。

 

「クラピカ!!」

 

 すると名前を呼ばれ、クラピカは顔を上げた。

 通りの向こうから、レオリオがクラピカを見つけて走って来た。勢いで水溜りの水がぱしゃりと跳ねる。

 レオリオは傘を差していなかった。ぼんやりとした表情で、クラピカは彼を仰ぐ。

 

「レオリオ……」

「こんな時間まで、お前どこ行ってたんだよ!!」

 

 レオリオの怒声に驚き、クラピカは反射的に体を震わせた。本当のことを言うべきか迷った。

 

「……すまない……隣の駅の本屋で、気になっていた本を見つけて……読みふけっていたら、こんな時間になってしまった……」

 

 クラピカは言い訳を考えながら答えた。

 髪にも服にも、気が付けば雨が染み込んでいた。前髪からぽたりぽたりと、水滴が滴り落ちる。

 レオリオは荒く息を吐きながら、濡れたクラピカを見つめていた。

 

 

 視界が揺れた。一瞬倒れそうにでもなったのかと思ったが、それは違った。

 クラピカは、レオリオの腕の中にいた。

 

「……レオリオ?」

「……この国は治安が良いわけじゃねーんだ。何の連絡もなかったら、心配するじゃねぇか」

 

 携帯も繋がらねーし、と続いた言葉と共に、レオリオの腕の力が増した。

 紺のスーツの肩に、いくつもの雨粒が見える。顔に当たるシャツの感触もしっとりと濡れていた。

 

 ずっと探してくれていたのだ。この雨の中、傘も差さずに。

 クラピカはレオリオの見えない顔を見上げる。

 

 

(……私は、こんなにも君を心配させていたのか)

 

 

 あのヨークシンの夜の、電話に出ない間。

 合流してから、蜘蛛を追って、車を飛び出した後。

 離れてから、一方的な連絡ばかりを許している間。ずっと。

 

 

「……悪かった、怒鳴っちまって。昨日のこともあったから心配になってな……」

 

 

 雨音に紛れそうな声音でレオリオが言った。

 クラピカはゆるゆると首を振る。

 

 

「……すまない」

 

 

 短い言葉の連なりを、クラピカは心から言った。

 言えない想いも、全て込めて。

 

 

 帰路の途中、二人は信号で立ち止まる。雨はまだ止まない。すっかり身体が冷えきっていて、思い出したように寒さを感じ、クラピカの身体が震えた。

 それに気付いたレオリオは、スーツの上を脱ぎ、クラピカの頭に被せる。

 

「家に着くまで、被ってろ」

 

 クラピカは再度彼を見上げる。何だか、泣きたいような気持ちになった。

 シグナルが変わった。レオリオが歩き出すが、クラピカは足を踏み出すのをためらう。逡巡するクラピカの心情を知ってか知らずか、振り返ったレオリオは、構わずクラピカの手を引いて歩く。

 その手を離すことは、クラピカにはもう出来なかった。

 

 

 濡れたままでは風邪を引くので、帰宅した二人はすぐにシャワーを浴びた。交代でレオリオが入っている間、クラピカは髪をタオルで拭きながら、ハンガーにかけて干していた服のポケットを探る。

 数時間前、持ち出したイヤリングを取り出した。

 

 ……一般的に記憶喪失と呼ばれる症状については、クラピカも多少知識はある。

 何故レオリオがクラピカの記憶を積極的に語ろうとしなかったのか。それは恐らく、クラピカへの精神的ショックを懸念したからだろう。記憶が自然と戻るまでは、なるべく話さないことに決めたのだろうと、少し考えただけで容易に想像できた。

 

 クラピカはイヤリングを持つ右手に念を集中させた。五本の鎖が具現化される。問題はない。

 ノストラード組(ファミリー)は、元々ネオンの占いという念能力に頼り勢力を拡大してきた組だ。しかし、理由は未だ謎だが、その能力が現在失われている以上、これまでの体制からは脱しなければならない。マフィア社会で生き残るためにも、念能力に頼らず運営する組織に変える必要がある。

 娘の能力が失われたことで動揺しているライト・ノストラードが未だ回復していない為、クラピカはネオン護衛団のリーダーというだけでなく、組において実質的な若頭という立場になりつつあった。

 本当なら、記憶を取り戻した以上、すぐにでも組に戻った方が良いのだろう。少なくとも、これまでのクラピカならばそうしていた。

 だが、クラピカは迷っていた。どうするか決めかねたまま、風呂から上がったレオリオに促され、クラピカは布団に入る。一日中動いていたからだろう、一気に体が疲れを覚え、いけないと思いつつも、クラピカはそのまま眠りに落ちた。

 

 夜中、クラピカはふと目を覚ました。瞬きを数度すると、向かいに寝ている筈のレオリオの姿がない。上掛けの端が、薄らとした光に照らされている。

 

「……レオリオ?」

 

 身体を起こして見遣ると、レオリオは眼鏡をかけた状態で勉強机に突っ伏していた。勉強中に眠ってしまったのだろう。机に近付き、クラピカはレオリオの眼鏡をそっと外した。

 ノートパソコンも使っていたようだ。スクリーンセーバーが回っていた。閉じておいてやろうと、マウスを少し動かす。するとスリープ前の画面に戻る。

 瞬間、クラピカは目を疑った。裏社会の情報サイトだ。

 何故レオリオがこんなページを、と思うが、すぐに答えに思い至る。

 彼がこのような情報を調べている理由。それは自分の為だ。緋の眼の情報がないか、探しているのだ。

 クラピカの起きている日中ではなく、こうして夜中にひっそりと。受験勉強の合間を縫い、調べてくれているのだ。記憶のないクラピカの代わりに。

 

 クラピカの胸が痛んだ。嬉しいのに悲しい様な、そんな気持ちを覚えた。

 

「……医者志望が夜更かしをしては、いけないだろうに」

 

 クラピカはレオリオの背中に囁きながら、彼の肩に毛布をかけた。音を立てぬように、スタンドの明かりを消した。

 

 

 休暇として与えられた期間は二週間。ハンターサイト見る限り、組(ファミリー)に問題は発生していないようだ。センリツ達ならば、もう暫くクラピカが不在でも組を動かしていてくれるだろう。

 だから、もう少しだけ。休暇が終わるまでこの生活を続けようと、クラピカは密かに決意した。

 甘えであることはわかっていた。だがこのままここを去ることは、どうしても出来なかった。

 クラピカはひびの入ったイヤリングを眺める。唇で石に触れながら、仲間達に語りかける。

 

 

 忘れてないよ、皆。ちゃんと覚えてる。

 でもお願い、もう少しだけ。

 

 

「……もう少し、だけ」

 

 

 そう囁きながら、クラピカはイヤリングを箱に戻し、机の引き出しを静かに閉じた。

 

 

 

 

第五話